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日本近代文学の森へ (207) 志賀直哉『暗夜行路』 94  お栄への執着 「後篇第三  六」 その1

2022-01-04 10:57:52 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ (207) 志賀直哉『暗夜行路』 94  お栄への執着 「後篇第三  六」 その1

2022.1.4


 

 石本とS氏との会食は、主従関係にある石本とS氏の話の調子に謙作はなかなか入っていけなかったが、石本が気を遣ってくれた。会食後、謙作は石本は丸山の方を散歩し、翌日の夜行で一緒に東京へ帰ることになったのだった。

 横浜で石本と別れ、大森の家に帰ってくると、お栄が迎えてくれた。お栄は、謙作の結婚話に喜びの言葉を言ったが、自分のことはなかなか話そうとしなかった。しかし、その話があまりに出ない事が変になってきたころに、お栄は切り出した。

 


 「……でもね、貴方や信さんが賛成して下すったんで、私、本統に安心しました」
 こんなにいった。こういわれると謙作は弱った。彼は信行の伝えた事が嘘でないまでも、自分の気持を本統に伝えてない事を知った。その信行の上手な所がちょっといやな気がした。
 「あのね、……信さんはどういったか知りませんが、本統をいうと、僕は余り賛成してないんです。不賛成がいえないから賛成したので、実はいやいやなんです」
 これを聞くとお栄はちょっと意外な顔をした。
 「この話がうまく行ったとしても、二、三年は自家(うち)の事を貴女に見て頂きたいんです。そうだと僕には非常にいいんです」
 「そう?……それは私だって、今、貴方とお別れするのはつらいのよ。だけども仕方がないと思っている。それに、そういっちゃあ、何だけれど、私、やっぱり本郷のお父様がこわいのよ。近頃段々そうなって来た。その後は御遠慮して、伺わないけど、こわい眼で何時でも凝然(じっ)とこう睨まれてるような気がして仕方がない」
 「そんな事ないさ。それは貴女の気のせいだ。きっと何所(どこ)か身体(からだ)が悪いんだ」
 「ええ、もしかしたら、そうかも知れない」
 「きっとそうだ。第一貴女は本郷のお父さんを恐れる事は何にもないんだ。本郷の父さんとの事は対僕の問題で、貴女の知った事ではありませんもの」
 「そうもいえないわ。お祖父(じい)さんのいらした頃から、私はお父さんの嫌われ者でしたわ」
 「しかしそれでもいいじゃあ、ありませんか。それより、身体が悪いようなら医者に診てもらって、それから直してかからなければ駄目じゃありませんか。とにかく、こんな事はもっとよく考えてから決める方がよかったんです」
 お栄は今更の反対に当惑していた。そして、愚痴っぽい調子で賛成という事だったからお才にもそう返事をし、その支度で今もお才は東京に出ているのだというような事をいった。

 

 

 謙作の兄信行への気持ちは相変わらずだ。謙作は正直でまっすぐな性格だが、信行は世間ずれして如才ない。だから、言いにくいことは言わなかったりぼかしたりして、うまく取り繕ってしまう。そういう信行に謙作はいつも「嫌な気」がしているのである。

 信行に悪気があるわけではないし、むしろ、信行は誠実なのだ。けれども、謙作の複雑に入り組んだ気持ちをお栄にうまく伝えることはできない。というか、謙作自身、自分の気持ちを正確に把握しているわけではない。「不賛成が言えないから賛成した」「実はいやいやんなんだ」なんて気持ちを、どう他人が説明できるだろう。

 お栄のほうも、自分の気持ちがよく分かっていない。いや「よく分かることができる」ような単純なものではないのだ。謙作が結婚することはうれしいけれど、別れるのは辛い、と言ってしまえばそれまでだが、その心の根底にあるのは、謙作への「愛」といっていいのかどうか。ほんとうは謙作が好きで、できることなら結婚したいと思っているのか、それとも、そういう類いの「愛」ではなくて、むしろ母(代わり)としての「愛」なのか。その辺は曖昧なままだし、自分でも把握できないのだろう。

 父親の妾に対して、「いい気持ち」を持てる息子なぞいまい。むしろ憎しみを持つ方が普通だろう。お栄はその憎しみをいやというほど味わってきている。それなのに、謙作は、「しかしそれでもいいじゃあ、ありませんか。」なんて無責任なことを言うのである。「いやいや」にせよ、賛成したことには違いないのだから、今更そんなこと言われたって困るというお栄の気持ちもよく分かるし、謙作にしても、反省せざるを得ない。

 


 謙作の方も最初はそれほどにいう気はなかったが、いい出すとやはり其所(そこ)までいってしまって、今はいくらか後悔していた。それに、こんな事をいう自分の心持が、自分でもちょっとはっきりしなかった。お栄のためにいっているのか、自分のためにいっていのか、そう考えると、何しろ、お栄に対する、変な未練気から、こんなにして別れてしまうのは、つまらないという駄々っ児のような我儘な気持が起っているのであった。お栄の方だって、もう少し自分に執着していいはずだというような不満があった。離れているとそれほどに露(あら)われなかったこういう気持が、会うと急に出て来るのである。
 しかしこれはいい事ではないと、彼は思った。こういう幼稚な我儘に自身を渡し切ってはならないと考えた。で、彼は今いった言葉を取消すような意味で、ぐずぐずとまずい調子で何か繰返していた。

 


 「いい事ではない」に決まっている。それは分かっているのに、「駄々っ児のような我儘」が心にうごめくのをどうすることもできないのだ。

 「お栄の方だって、もう少し自分に執着していいはずだというような不満があった。」というあたりは、笑ってしまうほどの我儘ぶりだが、案外人間の心の真実をついているのかもしれない。

 お栄に対する「執着」は、恋愛感情というより、やはり母的存在への執着であろう。母と祖父の間に生まれ、母からは愛情をたっぷりと与えられず、父からも疎まれ、かといって実の父たる祖父が猫かわいがりしてくれたわけでもない。ただお栄にすがって生きてきたのが謙作なのだ。お栄が実の母ではないだけに、その「母への愛」と「女性への愛」が入り交じってしまう。

 ことの経緯がぜんぜん違うが、光源氏の藤壺への愛を思い起こさせるところがある。

 

 

 


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