不審没此何生
しるべなきわれをば闇に迷はせていづこに月の澄まんとすらん
半紙
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【題出典】『止観輔行伝弘決』一・一
【題意】 不審なり。此に没して何くにか生じたまう。
(天台大師よ)ここで亡くなり、いったいどの世に再びお生まれになるのか。
【歌の通釈】
導いてくれる人もいない私を闇の中に迷わせておいて(天台大師は私を置いて入滅し)、どこに月が澄もうとしているのだろうか(どの世にお生まれになるのだろうか)。
【考】
天台大師がまさに入滅しようという時、門人の智朗が、大師はこの後どの世にお生まれになるのかと尋ねたのが題文。大師を月に譬えて、この世から光が消え、残された者は闇に迷い、どの世でその光を照らすのかと詠んだ。闇に迷い月を求めるという心は、【参考】に挙げた仮名序の一節や特に小大君の歌を踏まえたものである。『明恵上人集』に「しるべなき我をば闇に迷はせていづくに月のすみわたるらむ」(一五三/続後撰集・釈教・六一九)という非常に似通う一首がある。
【参考】
或は月を思ふとて、しるべなき闇に辿れる心々……(古今集・仮名序)
長き夜の闇の迷へる我をおきて雲がくれぬる夜半の月かな(小大君集・二二/続詞花集・雑中・八五五/宝物集・二八五)
暗きより暗きにぞまよふべきはるかに照らせ山の端の月(拾遺集・哀傷・一三四二・和泉式部)
(以上、『寂然法門百首全釈』山本章博著 による。)
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▼人を導く人を「月」にたとえるというところが大事ですね。月は夜の闇を照らすものだからです。太陽は、光そのものなので、「闇の中の太陽」とはならない。
▼「澄む」と「住む」は、典型的な掛詞ですが、単なるダジャレではない。「月が澄んでいる」ということは、月の存在がはっきりと見える、分かるということに他なりません。「朧月」でも、月のありかは分かりますが、その「存在感」あるいは、「光の功徳」という点では、「澄んだ月」にまさるものはないでしょう。
▼自分を導いてくれる偉大な人、あるいは、もっと普遍化して「愛する人」がいなくなったときの嘆きは、イエスの弟子たちにも通じるものがあります。その嘆きの中にも、「その人」は「どこか」に、確固として存在しているのです。そのことを「信じる」のが信仰というものでしょう。あるいは、そのことを「信じたい」と思うのが信仰なのかもしれません。