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詩歌の森へ (2)古今和歌集・夕暮れは

2018-04-20 16:08:23 | 詩歌の森へ

詩歌の森へ (2)古今和歌集・夕暮れは

2018.4.20


 

夕暮れは雲の旗手に物ぞ思ふ天つ空なる人を恋ふとて

    〈恋一 詠み人知らず〉

【口語訳】夕空にはためく旗の形の雲のように、私の物思いは乱れている。それというのも、空のかなたの高貴な方をはるか遠くから恋してお慕いしているので。(小学館「日本古典文学全集」による。)


 この歌も朔太郎が高く評価している歌で、『恋愛名歌集』では、「大空に」の歌と並ぶ傑作としている。引用しておきたい。

 夕暮の空の彼方、遠く暮れかかる穹隆の地平の上に、旗のやうな夕焼雲がたなびいて居る。悲しい落日の沈むところ、遠い山脈や幻想の都会を越えて、自分の懐かしい恋人は住んで居るのだ。げに恋こそは音楽であり、さびしい夕暮の空の向ふで、いつも郷愁のメロディを奏して居る。恋する者は哲学者で、時間と空間の無限の涯に、魂の求める実在のイデヤを呼びかけてる。恋のみがただ抒情詩の真(まこと)であり、形而上学(メタフィヂック)の心臓であり、詩歌の生きて呼びかける韻律であるだらう。
 恋愛のかうした情緒を歌った詩として、この一首の歌は最も完全に成功して居る。音律そのものが既によく、恋の郷愁の情緒に融けて、セロの黄昏曲(ノクチュルネ)を聴くやうな感じがする。万葉集の歌の如き、その同想の者はあっても、言葉にメロヂアスの音楽が欠けている為、到底この種の象徴的な詩境は歌ひ得ない。かうした情操の表現としては、古今集の調律が最もよく適当して居る。前の歌「大空は恋しき人の形見かは」と相絶して、この歌は古今集恋愛歌中の圧巻である。

 「大空の」の歌への批評より具体的。古今集の歌を読んで、チェロのノクターンを聴いているみたいと感じる朔太郎っていうのは、やっぱり、並の人間じゃないよなあ。かなりキザだけど、嫌いじゃない。

 解釈上は、「天つ空なる人」というのは、朔太郎の言うように、「遠いところに住んでいる人」ではなくて、「高貴で手が届かない人」というのがどうやら正しいようだが(「日本古典文学全集」の口語訳もそうとっている)、そうとると、とたんに普遍性を失う。朔太郎のようにとってしまえば、現代にも通じる歌となる。そのことについて、朔太郎は「備考」として注記している。

古い歌人の中には、この「天つ空なる人」を天上人の意に解し、平民が身分ちがひの貴族に恋する片思ひの歌として、一首の意を解説して居る人がある。こんな悪趣向的の俗解をしたら、折角の名歌も型なしに成ってしまふ。詩を解さない似非非歌人の注釈ほど、詩を傷つけるものはないのだ。

 おお、気をつけないと。朔太郎に叱られるね。

 学問的な正しさを求めるのか、読者の主観を大事にするのかは、いろいろムズカシイ問題がある。どう読もうと読者の勝手だという意見もあるけれど、あんまり荒唐無稽な解釈をしてもしょうがない。とくに古典の場合は、まずは古人の思いを学問的な解釈によって味わったうえで、あとは、想像のおもむくままに解釈すればよいのだと思う。そういう主観的な解釈は、一種の「創作活動」だともいえるだろう。

 それにしても、こういう感慨というものは、さすがに年を取ると縁遠いものとなることは否めない。気持ちが若いうちはいくつになろうと青春だなんて頑張っている老人もいるけど、「夕焼け段々」とかで、暮れていく大空をみて「天つ空なる人」を恋う老人なんて、たとえいたとしても絵にならないよね。むしろ過ぎ去った青春を懐かしく回顧する老人のほうがしっくりくる。やっぱり詩は青春のものだ。

 

 


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