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日本近代文学の森へ (3) 斎藤緑雨『わたし船』

2018-04-21 11:21:40 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ (3) 斎藤緑雨『わたし船』

「日本短編文学全集 9」

2018.4.21


 

 「日本短編文学全集」で、たったの3ページ。2000字足らずの小説で、これが緑雨最後の小説だという。

 渡し船での、船頭と五十がらみの女との会話だけで成り立っている。といっても、船頭がしゃべるのはほんのちょっとで、ほとんどが女の愚痴である。

 愚痴といっても、その女の了見がすごい。世の中金だ、娘を売り飛ばして何が悪いという、まあ、身も蓋もない現実主義。

……お前さんの前だが米は安くなれ鼻は高くなれ、よかれよかれであいつを今日まで育て上げた苦労といったらほんとに一通りじゃなかった、一旦は稽古所へも遣って見たが、姉ほど喉が面白くないので、シャにはできない、モノにしたらと急に手筈(てはず)をかえて、うぶで御座います、世間見ずで御座いますと、今以ってそれが通るからおかしいね。シャだのモノだのって、おらが方じゃ聞かねえ符牒だ、何の事だな、船頭さんでもない、シャと言やあ芸者、モノと言やあ囲いもの、字で行くか仮名で行くか、女の捷径(ちかみち)はこの二つさ。それじゃあ売られるに極って居るのだ、売たいばかりに育てたようなものだ。当たり前だろうじゃないか、この節女を売らないでどうするものかね。……

 こんな調子だが、これが、船頭と女の会話だということを読み取るだけでも大変だ。「  」もなければ、「船頭が言った」もない。丁度落語のようなもので、言葉遣いと内容から判断するしかない。

 最初のところの「米は安くなれ鼻は高くなれ」って初めて聞くけど、これは、どうもそんなことを言って遊んだらしい。ネットでみたら、そんなこといって遊びましたっていう記事があった。つまりここでは、「鼻が高くなれ(美人になれ)」なんて言って育てたということだ。こういうのは、辞書にも載ってないから大変だ。

 「シャと言やあ芸者、モノと言やあ囲いもの、字で行くか仮名で行くか、女の捷径(ちかみち)はこの二つさ」とはおそろしや。「者」を「字でいく」つまり「漢字」で行くと「芸者」、「者」を「仮名」で行くと「囲いもの」というわけで、言葉遊びとしては面白いけど、女の生きる道はこの二つだと言われると、それはヒドイ話でしょ、ってことになるよね、今なら。

 昔だって、そんなのあんまりヒドイから、船頭は、「お前は、子どもを売るために育てるのかい?」って非難するのだが、女はびくともせずに、当たりめえよと居直る。

 船頭は、「娘を競市(せりいち=「競」の字はもっとムズカシイ字を使っている。)に出すような事ばかり考えて居ちゃあ、冥利が恐ろしいや。」と言うと、女は「冥利が尽きたって金さえ尽きなきゃあ、何一つ恐ろしい事があるものかね。」と逆襲する始末で、船頭の道徳観は粉砕される。

 ここで使われている「冥利が恐ろしい」とか「冥利が尽きる」とかいうのは、分かりにくいよね。「冥利」は、「神仏の恩恵」のことだが、「冥利が悪い」で、「ばちがあたる」の意。「冥利が恐ろしい」とは、つまり「ばちがあたるのが恐ろしい」ということになる。これも、今ではまず使わない用法。「冥利が尽きる」は、「これ以上幸せはない」という意味だが、ここでは、そうではなくて「恩恵がなくなる」の意味にしてしまっている。「金が尽きる」との関係で意味を強引に変えたのだろう。

 「日本短編文学全集」の「鑑賞」は、国文学者の三好行雄が書いているが、このセリフに「倫理の最低線にどっかと腰を据えた女の覚悟は、いっそあっぱれだともいえようか。」と言っている。

 社会の底辺を生きる庶民にとっては、道徳も倫理もない。金さえありゃあ、恐ろしいことなんぞ一つもない、と言い放つ女の迫力には、生半可な知識人が太刀打ちできるものではない。その女の迫力は、緑雨のものであったのかもしれない。

 それにしても、ほんとにヒドイ女のヒドイ言い草が、それでもおもしろく読めてしまうのは、ひとえにその文体のしからしむる技で、妙に心惹かれるゆえんである。

 緑雨の真骨頂は、実は小説ではなくて、批評・随筆にあったというが、今の世に生きていたら、どんなことをどんな文体で書くだろう。ちょっと読んでみたいものだ。




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詩歌の森へ (3)古今和歌集・ほととぎす

2018-04-21 10:45:32 | 詩歌の森へ

詩歌の森へ (3)古今和歌集・ほととぎす

2018.4.21


 

ほととぎす鳴くや五月(さつき)のあやめぐさあやめも知らぬ恋もするかな
   〈恋一 読み人知らず〉

【口語訳】ほととぎすの鳴く五月となり、家々には菖蒲が飾られているが、私は恋のために理性がなくなって、物の区別もつかなくなり、ただ恋に迷うばかりであるよ。(『日本古典文学全集』による)


 これも、まずは、朔太郎の鑑賞から。

古今集恋の部の巻頭に出てくる名歌である。時は初夏、野には新緑が萌え、空には時鳥(ほととぎす)が鳴き、菖蒲(あやめ)は薫風に匂っている。ああこのロマンチックな季節! 何といふこともなく、知らない人ともそぞろに恋がしたくなるとふ一首の情趣を、巧みな修辞で象徴的に歌ひ出してる。表面の形態上では、上三句は下の「あやめも知らぬ恋もするかな」を呼び起こす序であるけれども、単なる序ではなくして、それが直ちに季節の風物を写象して居り、主観の心境と不断の有機的関係で融け合って居る。しかも全体の調子が音楽的で、丁度さうした季節の夢みるやうな気分を切実に感じさせる。けだし古今集中の秀逸であらう。〈備考〉昔の歌人の多くは、この歌から五月雨頃の陰鬱な季節を感じ、いつも雨が降ってる曇暗の空の下で、菖蒲がしをれて居るやうな恋悩みの意に解して居る。旧暦の五月は今の六月に相当するから、原作者の心意に浮かんだ表象としては、或はかうした方が当たるかもしれない。

 朔太郎も言っているとおり、この歌の「五月」をどういう季節感でとらえるかによって、歌の情緒はかなり違ってくる。

 高校時代に、この歌を朔太郎のこの鑑賞によって知って以来、ずっと朔太郎風に受け取って味わってきた。この「五月」は、あくまで朔太郎の言うような風薫るロマンチックな季節であり、けっして陰鬱な梅雨時ではない。「菖蒲(あやめ)」は、「家々に飾られている」のではなく、野辺に匂っている。そんな季節感だ。

 しかし、ここで注意しなければいけないのは、「あやめぐさ」だ。これは、「あやめ」と同じで、今で言う「菖蒲(ショウブ)」のことだ。この「菖蒲」は、「菖蒲湯」に使う菖蒲で、今いうところの「アヤメ」とはまったく別種の植物だ。これがとてもややこしい。

 簡単にいえば、「アヤメ」は、「ハナショウブ」「カキツバタ」などと同じ「アヤメ科」の植物で、似たようなきれいな花を咲かせる。一方「ショウブ(菖蒲)」は、それらとはまったく別種の「ショウブ科」の植物で、きれいな花は咲かせない。花は咲くけど、地味な目立たない花だ。今でも、ショウブに、ハナショウブのような花が咲くと勘違いしている人は非常に多いわけだが、これに、古典の「アヤメ」が入ってくると、混乱はますます激しくなるわけである。

 で、朔太郎が、この「あやめぐさ」を、「菖蒲(あやめ)は薫風に匂っている」とイメージしたとき、どんな植物をイメージしていたのかという問題がある。「匂っている」と言っているので、きちんと「ショウブ」のイメージを持っていたようにも思うのだが、なんかあやしい。

 それはそれとして、朔太郎の「五月」は、あくまで新暦の五月をイメージしているわけで、だからこそ、「備考」を書いたのだ。つまり、原作者のイメージは知っていながら、あえて自分のイメージで解釈しているのだ。もちろんそれは学問的には「正しくない」解釈だが、朔太郎にとっては、学問的な正しさは絶対ではなかったのだ。

 さて、この植物としての「アヤメ」と、「文目(あやめ)=ものの道理・分別」とが、掛詞(かけことば)になっているわけで、この歌の意味は、「ああ、ぼくは、恋におちて、理性も失っっちゃった。」ってことなのだ。それを言うのに、「ほととぎす鳴くや五月のあやめぐさ」を持ち出した。朔太郎が言っている「序」というのはそういうことだ。だから、意味としては無視していいんだけど、そこに言葉がある以上、どうしてもイメージを生んでしまう。そのイメージが、実は、歌の「意味」にもおおいに影響しているってことを朔太郎は言っているわけで、これは学問的に言っても正当なことなのだ。(いわゆる「序詞」の働き。)

 ところで、朔太郎の詩に、この「あやめ」という言葉の出てくるものがある。その詩については、次回ということで。



 

アヤメの花

 

 

ショウブの花

 

(いずれもネットから拝借)

 

 

 


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