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100のエッセイ・第10期・17 「ここ空いてますか」

2015-01-18 16:24:09 | 100のエッセイ・第10期

17 「ここ空いてますか」

2015.1.18


 

最近、ネットでちょっと物議をかもしている新聞の投稿記事がある。どうも朝日新聞らしいが、とにかくまずはその記事を。

無職(静岡市・63歳)
 暮れの新幹線。相当の混雑なので指定車両に移ってみた。ここも満席だったが、ふと見ると、座席に小さなバスケットが置いてあり中に小犬。隣に若い女性が座っていた。早速「ここ空いてますか」と尋ねてみた。すると、その女性は、「指定席券を買ってあります」と答えた。私は虚を突かれた思いがした。
 改めて車内を見渡すと、多くの立っている大人の中、母親の隣で3歳ぐらいの男の子が座っている座席もある。あれも指定切符を買ってあるのだろう。
 仕方なくいっぱいの自由席に戻ると、ここにも学童前と思われる子が親の隣に座っていた。懲りもせずにまた「ここ空いてますか」と尋ねると、母親は仕方なさそうに子どもをひざの上に乗せ、席を空けた。私はその座席で居心地の惑さを感じながら、この新幹線の中での三景をどう考えたらいいのか自問した。

 たった350字のこの文章が、賛否両論を巻き起こしているわけだが、何よりも、「新聞」の投稿記事が「ネット」で話題になっているということが面白い。よく芸能人のブログが炎上したなんてことが今でも相変わらず話題になり、ネットにあんまり軽率に書き込むのはよくないなあと思いつつ、まさか、新聞の投稿はそんなことにはなるまい、と高をくくっていたら、その記事を写真に撮ってネットにあげて、話題にするということがあるのだと知って、いやはや大変な時代になったものだと痛感した。

 しかも新聞の投書となると実名だから、ネットでもその記事の写真が載るとなると、実名もばっちり写っている。別のサイトでは、さすがに名前の部分はモザイクになっていたが、投書したご本人は、こんなことになっているということ自体をまだご存じないかもしれない。

 ぼくが最初にこの記事の写真を見たときは名前も載っていてかすかに覚えているが、まあ、K氏としておこう。静岡市在住の63歳の男性である。

 ネットでは、おおむね否定的な意見が多く、品の悪い連中はさすがに「こんなジコチュウな老人は死ね。」とまでは言わないにしても(言っていたかもしれない)、「これこそ老害だ。」やら「この年齢の方ってこういう人が多いですよね。」やら、まあ、言いたい放題である。好意的な人もいないわけではなくて、「老人なんだから、席ぐらいゆずってやろうよ。」なんて意見もあった。

 じゃあ、お前はどう思うんだと聞かれたら、やっぱり「何言ってるんだ、この人は。」ってことになる。

 そもそも、新聞の投書というのは、昔からそれを趣味としている人がいて、掲載されると「薄謝」が出る。タダじゃないのである。ぼくがブログに何千字書こうと、ビタ一文もでない、どころか、月になにがしかの金を払っている始末だ。それなのに、たった350字で、少なくとも1000円はもらえる。(2000円という新聞社もあるようだ。もっとも図書カードらしいが。)これはボロい儲けではないか。(おれも始めようかなあ)

 だから、どうでもいいことを書いては毎日のように投書して、小銭を稼ぐ人も出てくるわけである。なかでも、「60代の無職の男性」と来たら、タチが悪いのである。この人たち(と一括りはいけないが、あえていえば)の特徴は、「何が言いたいのかさっぱり分からない文章」を書くのが大得意なのである。冒頭のK氏の投書などはさしずめその典型である。(蔵出しエッセイに載せておいたが「是か非か、ソバすする音」でも、バカバカしい投書を題材にした。)

 このK氏の場合は、文章の意味不明度は、行動の意味不明度と密接にかかわっている。

 「暮れの新幹線」に乗ったというのだが、「相当の混雑」なのは決まっているわけで、自由席に乗るのなら、立つのを覚悟か、どうしても座りたいのなら座れるまで何台もやり過ごして待つかのどちらかだろう。そんなことも考えずに、行き当たりばったりに「暮れの新幹線の自由席」に乗って、「相当の混雑なので指定車両に移ってみた。」というのだから呆れられるわけだ。ネットでもここは相当叩かれていた。「指定車両に移ってみた。」の「みた」がいけない。「指定車輌」(まあフツウは「座席指定車」というだろうが)に「移ってみて」、空いている席があったら座っちゃおうという魂胆がミエミエだ。まかり間違っても、「空いている指定席を車内で買おう」と思ったわけではないのだ。しかしこうした行動は、ぼくぐらいの年齢の人間は、結構やるものだから、これに関しては若い人ほど反感を感じない。

 今どきの若い人は、おどろくほど「規則遵守」の精神に満ちているから、こうした「いいかげんな老人」には厳しいのである。今どきの「老人」は、とくに60代の中頃というのは、全共闘世代のなれの果てだから、「規則は破るもの」だと思っているわけで、空いている「指定席」があったら、勝手に座っちゃうぐらいのことは朝飯前である。生真面目な若い人たちが「老害」だといって騒ぐのもムベなるかなである。

 さて、「指定車輌」に行ったら、「空いている」席があって、お、ラッキーと思ったら何とそこに「小さなバスケットが置いてあり中に小犬。」という事態になった。(この「中に子犬。」と体言止めにしてあるトコロが投書なれしていていやらしい。ちなみに、中に子犬がいることを知るまで、どのくらい時間がかかったのだろうと気になる。フツウは見えないないから、ワンワンと吠えたのだろうか。)そこで、K氏は声をかける、「ここ空いてますか」。子犬の入ったバスケットがあるのに、である。つまり、子犬は完全に「モノ」として認識されているのである。バスケットの隣の「若い女性」にとっては、子犬は立派な「家族」だから、たぶんびっくりして、「指定席券を買ってあります」と答える。「家族」なんだから当然である。そんなことは夢にも考えていないK氏は、「私は虚を突かれた思いがした。」と書く。「しまった。そこまでは考えてなかった。」というわけだろう。まあ、ぼくでも、そこまでは考えてないだろう。

 ここにツッコミをいれた人も多い。指定席を買ってあるんだから、そこに犬を座らせてどこが悪いんだ、ということである。しかし、冷静な人も多くて、実はJRの規則によれば、犬のために指定券を買うことはできないのだという指摘があった。それはそれでぼくにしても新しい発見で、K氏に理があったわけだ。で、これがK氏のいうところの「3景」のうちの「1景」。

 しかし次の「2景」は嫌な感じである。「改めて車内を見渡すと、多くの立っている大人の中、母親の隣で3歳ぐらいの男の子が座っている座席もある。あれも指定切符を買ってあるのだろう。」という何の変哲もない文章だが、自称無職63歳の男性が書く文章の特徴が遺憾なく発揮されている。

 「多くの大人」が「立っている」のだから、「3歳ぐらいの男の子」ぐらいは母親が膝の上に座らせるべきである、という考えが頭の中にははっきり存在しているのに、「あれも指定切符を買ってあるのだろう。」と書く。「指定切符を買ってあるのだから、仕方がない。」と言いたいのか、「3歳の子どものために指定切符なんか買うな。」と言いたいのか分からない。そして、そもそもそれほど座りたいなら、なぜ自分も「指定切符」を買わなかったのか、という自己反省がカケラも見られない。そこに多くの人の反感をそそる原因があったようだ。さらに、この文章の背後には、「オレたち老人は、年金暮らしだから、指定切符など買えないのだ。それにひきかえ、今どきの若い奴らは、3歳児のためにまで指定切符を買いやがる。生意気だ。」といったヒガミとネタミが透けて見える。ここがとても嫌らしい。

 ここで、あらためて、「63歳無職男性」が問題となる。63歳で無職だということは、63歳までずっと「無職」だったということではなくて、60歳ぐらいで定年退職し、それが大会社なら多額の退職金をもらい、そのうえ年金まで受給していると考えるのが妥当だろう。ぼくなどは、63歳のときは「無職」ではなかったし、今でも厳密には「無職」ではない。つまり、K氏は、相当金銭には恵まれているはずなのだ。しかも、新幹線にたとえ「自由席」であれ、乗ることができるのだから、決して「路上生活者」ではないだろう。しかも更に問題なのは、63歳という年齢は、ネット上でも問題にしていた人がいたが、「果たして老人」なのだろうか、ということだ。63歳で健康なら、「老人」として認識できない。ぼくなどは、65歳で、しかも大病後なのに、いちども席を譲られたことはない。(譲ってほしい、といつも思っているけど。)

 とすれば、新幹線の自由席に乗ってきたおそらく健康な63歳のK氏に、「席をゆずる」人間などいるわけがないし、K氏がどうしても「譲ってほしかった」のなら、その理由をはっきり書くべきだったのだ。「私は腰痛持ちで、5分と立ってはいられないのだ。我慢して立っていたら、痛みでとうとう床に倒れてしまった。」ということででもあれば、誰だって「どうぞ」と席を譲るだろう。というか、そもそもそういう人は、最初から「指定切符」を買うはずだ。

 最後に「3景」。こういう自己中心的なK氏は「懲りもせず」に、「ここ空いてますか」と尋ね、「学童前と思われる子」を半ば強制的に母親の膝の上に移動させる。そして、「私はその座席で居心地の惑さを感じながら、この新幹線の中での三景をどう考えたらいいのか自問した。」と書くのである。

 「懲りもせずに」の表現も、大方の反感をかっていた。この表現には、一見「自己反省」があるようにみえる。「オレも懲りないやつだなあ。」という自嘲めいた響きがあるからだが、実はぜんぜん「懲りてない」わけだ。自分のほうが理不尽なことをしているのに、「懲りもせずに」とはそもそもオカシイのだが、この文章の不快感のトドメは最後の「この新幹線の中での三景をどう考えたらいいのか自問した。」だ。

 「自問した。」なんてことで投書の文章を締めくくるな、って誰だった思う。K氏が書くべきは、「自問した結果」である。その結果、「つくづくオレは理不尽で自己中心的なバカヤロウだと分かった。」とか「かわいそうな老人のオレがここまでしなければ座れない世の中はクズだと思った。」とか、何でもいいから書けばいいのだ。それでこそ「投書」である。「自問」じゃ、「投書」にならない。

 ネットでは、こんなくだらない、何を言っているんだか分からない投書を、朝日新聞はなぜ採用したのか、朝日が悪い、などと悪のりしている人たちもいたが、まあ、朝日に限らず、投書にはこの手のものが多い。

 投書を趣味にしている人の書いたものにいちいち関わっていると、大切な時間を無駄にすることになる。この今のぼくのように、そしてこれをここまで読んでしまったアナタのように。


 



★蔵出しエッセイ★ 是か非か、ソバすする音


 

 


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一日一書 488 私はうたはない 2(コラ書)

2015-01-18 10:40:49 | 一日一書

 

伊東静雄「寧ろ彼らが私のけふの日を歌ふ」より



昨日と同じ詩句で、もう1枚。

 

 


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