伊東静雄「咏唱」全文
半紙(変形)
●
本文は以下のとおりです。
咏唱
この蒼空のための日は
静かな平野へ私を迎へる
寛やかな日は
またと来ないだらう
そして蒼空は
明日も明けるだらう
「寛やか」は、「ひろやか」あるいは「おだやか」「のびやか」などと読めますが
「おだやか」と読んでおきたい気がします。
伊東静雄「咏唱」全文
半紙(変形)
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本文は以下のとおりです。
咏唱
この蒼空のための日は
静かな平野へ私を迎へる
寛やかな日は
またと来ないだらう
そして蒼空は
明日も明けるだらう
「寛やか」は、「ひろやか」あるいは「おだやか」「のびやか」などと読めますが
「おだやか」と読んでおきたい気がします。
普通はわれわれは自己の存在を最小限に縮小して生きているのであって、われわれの能力の大部分は眠っている、なぜならわれわれの他の能力は習慣の上に寄りかかって休息していて、習慣はただ自分のやるべきことだけを知っていて、われわれの他の能力のたすけを必要とはしないからである。
★マルセル・プルースト「失われた時を求めて 第2巻」p384 井上究一郎訳・ちくま文庫
プルーストの切り抜きの13~15までは、ほとんどつながっている部分です。
われわれは美と幸福とが個性的なものであることをいつも忘れている、そして、いままでに気に入ったさまざまな顔や、かつて経験したいろんな快楽をつきまぜ、そこから一種の平均をとってつくりあげる一つの因習的な型を、心のなかで、美や幸福に置きかえてしまい、無気力な、色あせた、抽象的な映像しかもたなくなっている、そうした映像には、かつて知ったものとは異なる、新しい、ういういしいあの性格、美と幸福とに固有のあの特徴が失われているというわけなのだ。そしてわれわれは、人生について悲観的な判断をし、それを正しいと思っている、そのじつ、美も幸福も見おとして、それらの一原子さえもふくまれない総合に置きかえながら、両者を考慮に入れたつもりになっていた。だから、新しい「名作」だといわれても、ある文学通は、そんなものにたいして、読みもしないまえから退屈のあくびをする、なぜなら彼は、いままでに読んだ名作の一種の合成物を想像するからである、それにひきかえ、ほんとうの名作というものは、特殊なもの、予見できないものであって、それ以前の傑作の総和から生まれるのではなく、この総和を完全にとりいれてもまだ見出すのに十分ではない何物かから生まれるのである、なぜなら、真の名作はまさにその総和のそとにあるのだから。そうした新しい作品を知ったとなると、先ほどまで無関心だった文学通も、そこに描かれている現実に興味を感じる。
★マルセル・プルースト「失われた時を求めて 第2巻」p382 井上究一郎訳・ちくま文庫
美は「個性的」なものだということは、何度も繰り返しプルーストが強調していることです。
なぜ、「名作」を読む前から「退屈のあくび」をするのか、ここを読むと深く納得されます。
風景が変化を増し、けわしくなり、汽車が二つの山のあいだの小駅にとまった。山峡の底、渓流のほとりに、一軒の番小屋が見えるだけであったが、その家は、窓とすれすれのところを川が流れ、まるで水中に落ちこんでいるようだった。かつてメゼグリーズのほうやルーサンヴィルの森のなかをひとりでさまよったとき、突然あらわれてこないものかとあんなに私がねがったあの農家の娘よりもひときわまさって、ある土地の生んだ人聞にその土地独特の魅力が感じられるとすれば、このときその小屋から出てきて、朝日が斜に照らしている山道を、牛乳のジャーをさげながら駅のほうへくるのを私が見た背の高い娘は、まさにそれであったにちがいない。山がけわしくて他の世界から隔絶しているこんな谷間では、彼女が見る人といっては、わずかのあいだしか停車しないこうした汽車の乗客よりほかにはけっしてないだろう。彼女は車輌に沿って歩きながら、目をさました数人の乗客にミルク・コーヒーをさしだした。その顔は朝日にぱっと映え、空よりもばら色であった。私はその娘をまえにして、われわれが美と幸福との意識をあらたにするたびに心によみがえるあの生きたいという希望をふたたび感じた。
★マルセル・プルースト「失われた時を求めて 第2巻」p382 井上究一郎訳・ちくま文庫
「生きたいという希望」は「美と幸福の意識」から生まれるということでしょうか。