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ミュンヘンなんて、どこ吹く風

ミュンヘン工科大留学、ロンドンの設計事務所HCLA勤務を経て
群馬で建築設計に携わりつつ、京都で研究に励む日々の記録

キューガーデンの温室

2007-01-23 01:14:44 | 帰国・修論+αな日々

the Palm House at Kew Gardens/2006年12月9日撮影

鋳鉄梁から錬鉄梁へ、という変遷の具体例として挙げようと考えているのが、キューガーデンの温室である。クリスタルパレスよりも先行する1848年に完成したこの温室は、デシムス・バートンとリチャード・ターナーのコンビで設計がなされた。同じくバートンがパクストンと共同し1840年に完成したチャッチワースの大温室を参照しつつも、こちらは錬鉄造である。当初はチャッチワース同様に鋳鉄造として設計がなされたが、追加予算を捻出して錬鉄造で設計がやり直されたという経緯がある。ここで追求されたのは、より多くの太陽光を取り入れるためのできるだけ細い骨組みであった。鋳鉄を用いた場合、欠点である曲げへの弱さを補うため梁材が太くなってしまう。そこでターナーは、当時特許が取得されたばかりの錬鉄製甲板梁を応用することにしたのである。造船業からの技術移転。これにより、断面でかなりのスリム化が実現され、重量が軽くなったおかげで柱も細くて済んだのだ。


from "Richard Turner and the Palm House at Kew Gardens"
/E. J. Diestelkamp

温室はターナーが自ら持ち込んだ企画にもかかわらず、評議会の方針で実績のあるバートンが主導権を握るかたちで設計が進められた。外観のプロポーションはバートンの意向が優先されターナー不在のまま実施図面まで引かれたが、結局詳細はその後ターナーによって建設途中にほとんど変更されることになる。バートンとターナー、植物園側の責任者との往復書簡からは、ターナーがバートンを立てつつも、肝心なところでは自分の意見を植物園側に主張して認めさせていたことがわかる。ちなみにそうした技術をバートンは逐一特許申請している。

資料を読んでいて思うのは、「実験をして」「試験をして」という表現の多さと、特許申請された造船技術が翌年には建築に移転されているというスピード感。

ちなみにイギリスでは窓に税金をかけていたガラス税が1845年に撤廃される。
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軽~い建築

2007-01-20 03:38:46 | 帰国・修論+αな日々
「君は、自分の建物の重量を知っているかい?」

これは、イギリスのハイテック建築家ノーマン・フォスターが、後に彼の代表作となるセインズベリーセンターの現場を訪れた際に、同行したバックミンスター・フラーから質問されたとされる問いです。

僕は大学院で鈴木博之研究室に所属し、近代建築史を専攻しています。

最近の興味はハイテックとその“軽さ”についてです。部材質量あたりの性能を高めて軽量な構造を目指すハイテックの思想は、現代におけるサステイナブルデザインのエネルギー志向でアクティブな一翼を担っています。修士論文では19世紀イギリスの鉄骨造建築のディテールを調べてみようと思っています。そもそもハイテックはいかにして生まれたのか、その源流を探ろうと思ったのです。装飾材としての鋳物からスタートした鉄が、その本来の“軽さ”を手に入れるまでの変遷史。

今年の春まで留学していたミュンヘン工科大学では、イギリス人建築家リチャード・ホールデンの指導を受けました。彼はフォスター事務所出身で、極小建築や局地建築を得意とするハイテック建築家です。資源もエネルギーも限られた状況で建築はどうあるべきか。“軽く”あるべきである。冒頭のフラーの質問に答えたのも当時セインズベリーを担当していた彼だとされています。

彼は僕ら学生をカヤックの工場やパラグライダーの格納庫に連れて行きスケッチをさせました。それら“軽い”構造体において支配的なのは、地面に向かい一方向に働く重力ではありません。浮力や上昇気流など、より微細で複雑な力に対して設計された繊細なディテールが要求されます。

第一次世界大戦時、戦闘機はすべて木製だったそうです。当時、木は単位質量あたりの強度が最強だったのです。第二次世界大戦時でも、イギリスの主力戦闘機は木製でした。安価で軽量な合金が開発される前の時代の話です。「単位質量あたりの強度」とは、比重、引張り強さ、ヤング率(しなりやすさ)、比強度(剛性)、耐候性などから評価されます。それらとコストとのバランスによって材料は選択されるわけです。カヤックの歴史をたどると初めはやはり木製で、アルミニウム、カーボンと進化してきました。

しかし建築が構造的に進化し“軽さ”を手に入れるにつれて、それまでの重厚な建築がもっていた躯体の熱容量や防音性は失われ、シェルターとしてのその環境的な「頼りがい」は失われていきました。それが今に続く機械設備史誕生のきっかけだったと言ったのが、『環境としての建築』の歴史家レイナー・バンハムでした。バンハムはその著書の終章で、アーキグラムの言葉を引用してこう予見します。
「アーキグラム8の中には建物は一切ないかもしれない…」(『アーキグラム7』)
機械と建築はボーダレスになり、環境化した“軽い”建築は空気のように人間を取り巻く、のか…?

フラーの質問に対しホールデンは正確な数値を計算して応え、最後にこう付け加えました。「ゆえに、単位容積あたりの重量は、ボーイング747型機よりもずっと軽いと言えます」ボーイング747は当時最新鋭の超大型旅客機。フラーはそれを聞いて大変満足したとのことです。

“軽い”建築を考えること。それは建築を成り立たせている仕組みや技術に意識的になること。

「君は、自分の建物の重量を知っているかい?」


おとといの投稿で話題に上ったので再録してみた。(初出:2006年6月8日)
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リヴァプールの商人

2007-01-19 01:37:28 | 帰国・修論+αな日々
エヤムボ王ネタのつづき。彼がリヴァプールの鉄商人に鉄の宮殿を建造させたことは以前書いた。さて、ナイジェリアとリヴァプールを結びつけるもの。かつてリヴァプールはイギリス最大の奴隷輸入港だった。奴隷貿易廃止後も、蝋燭と石鹸の製造業の一大中心地を抱えていたため、リヴァプールはパーム油のヨーロッパ最大の輸入港としてナイジェリアとなかば独占的に深い関係を保ち続けた。彼らは、一回の航海でおよそ千樽のパーム油を運んだといわれている。そんな彼らがリヴァプールからの積荷としてナイジェリアに持ち込んだものは鉄骨造のプレファブ建築、…ではなくて、主にラム酒と弾薬だったと言われている。ちなみに商人たちが手数料として王に支払っていた輸出税のことを「コミー」といいます。 閑話休題。

(でもイギリス製の鉄骨造プレファブ建築が世界中に輸出されたのは本当である)
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細菌か毒気か

2007-01-18 01:33:07 | 帰国・修論+αな日々
週末に図書館が閉館してしまうので、ここぞとばかりに英国史の本を読んでいた。

感染病に関する「接触伝染説」すなわち細菌説と「非接触伝染説」すなわち毒気説に関する話が面白い。後者は今考えれば明らかに誤っているにもかかわらず、1830~1860年代においては多数派の学説だったらしい。その背景には、細菌感染説に基づく検疫制度を自由貿易上の足かせと考えた新興ブルジョワ階級が圧力をかけていたとも。加えて、黄熱病の研究者が人から人へ移る細菌を発見できなかったことからも、細菌感染説は「非実証的である」として攻撃された。その頃、ヨーロッパではコレラが流行している。このときに当時の検疫制度の無力さが露呈して、接触伝染説はますます劣勢になる。1849年には政府が公式に毒気伝染説を認めて、それに基づく国民健康法を制定して都市の衛生改革を行った。でも実際の施策は下水道の整備とかだったので、細菌が水の汚染で伝播するのを防ぐという意味では結果的に正しいことであったから、一定の抑制効果はあった。その後、顕微鏡によってコレラ菌が発見され、毒気を原因とする非接触伝染説は打ち砕かれたのだという。

当たらずとも遠からずってトコが、フロギストン説みたいなものですね。
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論文の重量?

2007-01-17 00:54:44 | 帰国・修論+αな日々
今日のすずきせんせいとのミーティングを踏まえ、僕の修士論文『19世紀英国の建築状況におけるlight constructionの受容過程について』は、主査を鈴木博之教授、副査を難波和彦教授と松村秀一教授にお願いすることになりました。

僕が持参した本文の厚みを見るなり先生は「君は自分の論文の重量を知っていますか?こればっかりは断面がスマートなほど良いとは限りませんよ」とニヤリ。

外国人に見せることも想定して、図版はたくさん載せるべしとの助言をいただく。
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梗概

2007-01-16 05:42:51 | 帰国・修論+αな日々
今週の水曜日までに修士論文のタイトルと副査の先生二人を研究室に申告することになっている。明日火曜の午後すずきせんせいにエスキスの時間をとっていただいているので、もろもろ相談するつもり。もちろん自分のなかでは全部決まっている。今日は梗概のたたき台と、本文の巻末に付けようと思っている年表づくりをしていた。エクセルは慣れないので簡単な円グラフさえヘルプを見ないと描けぬ。

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大英帝国とプレファブ 3

2007-01-15 04:00:22 | 帰国・修論+αな日々
松村研から借りた本をコピーしたものを読んでいる。なかでも 『PIONEERS OF PREFABRICATION THE BRITISH CONTRIBUTION IN THE NINETEENTH CENTURY』 という本が面白い。プレファブリケーションという視点から、19世紀という時代、大英帝国のありさまを描いている。やはりインドやアフリカといった海外植民地は、イギリスのプレファブリケーション市場にとって大きな商圏だったようだ(とはいえ、ここでもイギリスは追いかけてきたアメリカと闘い、そしてやぶれることになるのだが)。そして鉄骨造はじめ実験的試みの受け皿でもあった。ここにきて、「建築の軽さ」が、船舶による輸送および現地での施工という観点から評価できるようになる。

19世紀の鉄骨造建築は当時の科学水準・社会的要求に基づいたハイテク建築であった。それらの発展に寄与し促進したのは鉄道駅舎や工場建築だけではなかった。

というわけで、今は梗概のたたき台をつくっているところである。論文を踏まえて何か一枚大きなダイアグラムを描きたいのであるが、まだそこまで行けていない。
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K.F.シンケルのいす

2007-01-14 04:22:06 | 帰国・修論+αな日々
BCSA英国構造鋼協会発行の『歴史的鉄骨造建築に関する手引き』を読んでいる。歴史的建造物の保存改修の際に、設計荷重等を推定するための本である。19世紀中頃から20世紀前半までの鉄骨造建築の、標準的な材質、設計荷重、許容応力度等が、時代ごとの建築基準・規格標準と絡めながら解説されている。

一口に鉄と言っても鋳鉄と錬鉄とはまったく違う。以下、その使い分けについて。

鋳鉄の内部構造が粒子状である一方で、錬鉄は木のように繊維質である。圧縮には鋳鉄と同等で、引張りには鋳鉄よりもずっと強い。ゆえに、1840年頃からいったんそれが大量に手に入るようになると、建築の構造、特に梁においては錬鉄が鋳鉄に取って代わっていったのである。しかし、鋳造できる鋳鉄に比べると、圧延しかできない錬鉄の部材はカタチのバリエーションに欠けていた。そのため、錬鉄の構造物はしばしばおおざっぱで荒々しく見えてしまうのだった。ゆえに、実際には錬鉄造であっても表面には鋳鉄製の装飾が施されていることがしばしばある。


Armchair / Karl Friedrich Schinkel, 1820-1825

ということがよくわかるのが、1825年頃に製作されたカール・フリードリッヒ・シンケルの肘掛け椅子である。装飾の施された肘掛けと足、背もたれは鋳鉄製で、腰をかける座面は引張りと曲げに対抗できるように錬鉄製のロッドでできている。建物においても同様に、鋳鉄は柱(と装飾)、錬鉄は梁に使い分けられていた。その後錬鉄が鋼に取って代わられても、鋳鉄柱は20世紀初頭まで使われ続けた。
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事実の集積の決定版

2007-01-12 03:01:56 | 帰国・修論+αな日々
すごい本を見つけてしまいました。

『構造物の技術史』 藤本盛久:編、市ヶ谷出版社、2001

構造物の資料集成・事典と銘打っているだけあって、その情報量は半端無い。とにかく「すべて」が書いてあるのだ。だから一冊の本としての脈絡は無くて、時系列に沿ってトピックが並んだ用語辞典といった感じ。図書館にあるのは前から知っていたし、以前後輩から薦められたこともあった気がする。古文献を苦労して和訳して得た知識が、この本のなかに普通に書いてあったりして少しへこんだけど、最初からこの本を読んでしまっていたら何が大切かわからずたぶん見落としていたと思う。御年80歳の技術史の大家が、853冊の古今東西の文献からドライに抜き出した事実の集積。1300ページもあるのに索引が付いてないのが玉にキズ…。

来週16日にすずきせんせいに修論エスキスをしてもらえることになりました。17日が修論タイトルの申告締め切り日で、18日が提出前最後の鈴木研自主ゼミ。今週いっぱいは本文を書いて、来週頭くらいにいったん梗概を書いてみようと思う。
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大英帝国とプレファブ 2

2007-01-11 00:04:21 | 帰国・修論+αな日々
夕方から北京COEのミーティング。三月の中国でのプレゼンテーションに向けて、事例リストづくりや提案のラフスケッチづくりをちょっとだけ手伝っている。

さて、昨日のエヤムボ王のつづき。彼はNew York Observer誌1843年5月27日号の「奴隷制度の対象」という特集のなかで「エヤムボ、オールドカラバの王。英語を読み書きできる聡明なアフリカ人」として紹介されている(本文は手に入らず)。なお、プレファブ建材としてのコルゲート鉄板は1850年代ころまでにカタログ化されていたらしい。海外に輸出する行為も盛んに行われていたようだ。ちなみに、エヤムボ王の建てた鉄の宮殿は、なぜか三年後には廃墟になってしまっている("Twenty nine Years in the West Indies and Central Africa" H M Waddell, London, 1863 に廃墟となった宮殿の図版が載っているとのこと)。

19世紀のプレファブリケーションに関する参考文献を、まつむらせんせいに4冊貸してもらった。プレファブが修論のテーマなら、フランスやアメリカを無視することはできない。でも僕はそれよりも、当時イギリスで生産されていた鉄が、どんな内訳でどんな用途にどんな思惑によって用いられていたのかを知りたいのである。
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