第一次世界大戦の前まで、イギリスとフランスは植民地支配権をめぐってアフリカ大陸で激しく争っていた。ナイジェリア沿岸部は17世紀から19世紀にかけてヨーロッパの奴隷商人たちによって奴隷海岸と呼ばれていた場所である。19世紀に入るとイギリスは奴隷売買を禁止し、代わりに商品貿易を強化。1886年に王立ニジュール会社を設立し、19世紀の末にはナイジェリアを武力で併合し植民地化した。
さて、僕が論文の冒頭で扱おうと考えている『builder』1843年の号に掲載された「アフリカの王のための鉄の宮殿」を伝える記事は、併合される前のそのナイジェリアが舞台となっている。それは、ナイジェリアの沿岸部を統治していた諸侯の一人であるエヤムボ王が、イギリスリヴァプールの鉄商人ウィリアム・レイコックに建てさせた宮殿であるという。調達資金の限界によって、当初の予定と異なり全鉄製とすることは見送られたが、木造のフレームの上に、プレファブリケーションされた鉄製パネルを配してつくられたとレポートされている。また、レイコックの会社には、東インドの駐在員からも建築の依頼が来ていることが伝えられている(セポイの反乱を期に統治権が東インド会社から英国政府に移るのは1858年である)。
記事中では、建築に鉄を使用することの利点として、虫害がないこと、地震に強いこと、火災に強いことなどが挙げられている(その妥当性については不明)。
エヤムボ王は、隣接する海岸を領有する別の諸侯が建設した立派な宮殿への対抗心から、この誰もつくったことのない前衛的な宮殿を建設することを決断したようだ。なんとなくその後の植民地支配へと続くイギリスの策略を感じてしまう。
さて、このエヤムボ王が採用した鉄製パネルとは、コルゲート板のことらしい。イギリスのデボン州で製造されたコルゲート板がプレファブリケーション建材として世界中の大英帝国の遠隔地に輸出され、アフリカのエヤムボ王にも採用されたとの記述があるからである(『"Down the Deep Lanes" - Peter Beacham with photographs by James Ravilious (Devon Books, 2000)』)。19世紀中頃になると、イギリスでは新規の鉄道敷設が一段落し、生産されたレールの40パーセントが海外(新大陸や植民地)に輸出されるようになる。そうした世界戦略の一環として、鉄のプレファブリケーションも全世界へ輸出されていったのだろうか。
明日まつむらせんせいに聞いてみよう。
さて、僕が論文の冒頭で扱おうと考えている『builder』1843年の号に掲載された「アフリカの王のための鉄の宮殿」を伝える記事は、併合される前のそのナイジェリアが舞台となっている。それは、ナイジェリアの沿岸部を統治していた諸侯の一人であるエヤムボ王が、イギリスリヴァプールの鉄商人ウィリアム・レイコックに建てさせた宮殿であるという。調達資金の限界によって、当初の予定と異なり全鉄製とすることは見送られたが、木造のフレームの上に、プレファブリケーションされた鉄製パネルを配してつくられたとレポートされている。また、レイコックの会社には、東インドの駐在員からも建築の依頼が来ていることが伝えられている(セポイの反乱を期に統治権が東インド会社から英国政府に移るのは1858年である)。
記事中では、建築に鉄を使用することの利点として、虫害がないこと、地震に強いこと、火災に強いことなどが挙げられている(その妥当性については不明)。
エヤムボ王は、隣接する海岸を領有する別の諸侯が建設した立派な宮殿への対抗心から、この誰もつくったことのない前衛的な宮殿を建設することを決断したようだ。なんとなくその後の植民地支配へと続くイギリスの策略を感じてしまう。
さて、このエヤムボ王が採用した鉄製パネルとは、コルゲート板のことらしい。イギリスのデボン州で製造されたコルゲート板がプレファブリケーション建材として世界中の大英帝国の遠隔地に輸出され、アフリカのエヤムボ王にも採用されたとの記述があるからである(『"Down the Deep Lanes" - Peter Beacham with photographs by James Ravilious (Devon Books, 2000)』)。19世紀中頃になると、イギリスでは新規の鉄道敷設が一段落し、生産されたレールの40パーセントが海外(新大陸や植民地)に輸出されるようになる。そうした世界戦略の一環として、鉄のプレファブリケーションも全世界へ輸出されていったのだろうか。
明日まつむらせんせいに聞いてみよう。