goo blog サービス終了のお知らせ 

ミュンヘンなんて、どこ吹く風

ミュンヘン工科大留学、ロンドンの設計事務所HCLA勤務を経て
群馬で建築設計に携わりつつ、京都で研究に励む日々の記録

大英帝国とプレファブ

2007-01-10 01:47:01 | 帰国・修論+αな日々
第一次世界大戦の前まで、イギリスとフランスは植民地支配権をめぐってアフリカ大陸で激しく争っていた。ナイジェリア沿岸部は17世紀から19世紀にかけてヨーロッパの奴隷商人たちによって奴隷海岸と呼ばれていた場所である。19世紀に入るとイギリスは奴隷売買を禁止し、代わりに商品貿易を強化。1886年に王立ニジュール会社を設立し、19世紀の末にはナイジェリアを武力で併合し植民地化した。

さて、僕が論文の冒頭で扱おうと考えている『builder』1843年の号に掲載された「アフリカの王のための鉄の宮殿」を伝える記事は、併合される前のそのナイジェリアが舞台となっている。それは、ナイジェリアの沿岸部を統治していた諸侯の一人であるエヤムボ王が、イギリスリヴァプールの鉄商人ウィリアム・レイコックに建てさせた宮殿であるという。調達資金の限界によって、当初の予定と異なり全鉄製とすることは見送られたが、木造のフレームの上に、プレファブリケーションされた鉄製パネルを配してつくられたとレポートされている。また、レイコックの会社には、東インドの駐在員からも建築の依頼が来ていることが伝えられている(セポイの反乱を期に統治権が東インド会社から英国政府に移るのは1858年である)。

記事中では、建築に鉄を使用することの利点として、虫害がないこと、地震に強いこと、火災に強いことなどが挙げられている(その妥当性については不明)。

エヤムボ王は、隣接する海岸を領有する別の諸侯が建設した立派な宮殿への対抗心から、この誰もつくったことのない前衛的な宮殿を建設することを決断したようだ。なんとなくその後の植民地支配へと続くイギリスの策略を感じてしまう。

さて、このエヤムボ王が採用した鉄製パネルとは、コルゲート板のことらしい。イギリスのデボン州で製造されたコルゲート板がプレファブリケーション建材として世界中の大英帝国の遠隔地に輸出され、アフリカのエヤムボ王にも採用されたとの記述があるからである(『"Down the Deep Lanes" - Peter Beacham with photographs by James Ravilious (Devon Books, 2000)』)。19世紀中頃になると、イギリスでは新規の鉄道敷設が一段落し、生産されたレールの40パーセントが海外(新大陸や植民地)に輸出されるようになる。そうした世界戦略の一環として、鉄のプレファブリケーションも全世界へ輸出されていったのだろうか。

明日まつむらせんせいに聞いてみよう。
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

木と鉄、石と鉄

2007-01-09 01:39:02 | 帰国・修論+αな日々
世界最初の鉄橋といわれるアイアンブリッジには、「ありつぎ」「ほぞあなつぎ」「くさび」といったイギリスの伝統的な木組みが参照されているという。これは当時の鋳込み技術の正確さを示しているとともに、鉄という素材がその最初期において独自の構法を有していなかったことを意味している。また、この際に使用された鉄は炭素分の多い鋳鉄というもので、粘り気が少なく、圧縮には強いが引張りには弱い。それは内部構造が石のように粒状だからである。そのため、アイアンブリッジでは石橋のようなアーチ構造が採用されたといわれている。

RIBAの年報を読んでいて、ジェームス・アランソン・ピクトンという人物にたどり着いた。彼は、1880年に「建築における構造材料としての鉄」というレポートを書いている。彼の経歴は「builderの息子」ということになっているのだが、「アングロサクソンの建築は、石造か木造か」という論文も書いていることから、マテリアルに関心のある人物だったのではないかと想像している。その論文の背景には、St.Mary教会という建物をめぐって「11世紀以前にもイギリスに石造文化はあったのか」という論争があったようで、ピクトンは「timber」という単語には語源までたどればもともと「木造」という意味はないのだから、歴史上登場するtimberenという語をもって木造しか知らなかったとは言えない、と述べている。Oxford辞書によれば、timberは古英語ではもともと建築および建築材料一般を指す言葉であり、いつからかそれが木だけのことを指すように変わっていったのである。

そんなことを考えていたら、研究室の先輩の卒業論文がイギリスの木造建築についてだったことを知り、さっそく本文を貸していただくことにした。1666年のロンドン大火以降、都市部での木造建築は排除される方向に法整備が進んでいく。先輩の論文はイギリス木造建築の基本構法が定まった11世紀から、ロンドン大火によって都市部から木造建築が消えていく17世紀末までを扱っている。巻末付録の416人分の大工名鑑(いつどこで、どのような身分賃金で働いていたか)が圧巻。

昨日今日は、今までちょっとずつ書いてきたものを全部つなげて編集してみたりしていた。明日からはまたしばらく資料読みに復帰する予定。
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

春は鉄の匂い

2007-01-07 18:21:37 | 帰国・修論+αな日々
「春は鉄までが匂った。」

英文を読むのに疲れると、近所の図書館で借りた松尾宗次さんの『いろいろな鉄』というエッセイ集を読んでいます。文系理系をまたがって、鉄にまつわる古今東西の話がつづられています。そのなかに「香りと鉄」という章があって、そこに冒頭の言葉が載せられていました。町工場で旋盤工をしながら小説を書き、芥川賞と直木賞に複数回ノミネートされた作家小関智弘さんの小説『錆色の町』の結びの言葉だといいます。「かなけ(金気・鉄気)くさい」と広辞苑にも載っているくらい鉄にも匂いはあるそうですが、当時の文芸評論家は「鉄が匂うはずはない、思い込みの過ぎた表現である」と批評したんだそうです。ここまで読んで、僕はふと、自分が生まれた新潟県与板町のことを思い出しました。戦国時代は上杉家の知将直江兼継の城下町として、江戸時代には鍛治町として栄えたこの町は、僕が小さい頃はまだ、金物屋の作業場から火花が散るのを眺めることができるような町でした。豪雪地帯でもあるため、道路にはくまなく消雪パイプが埋め込まれていて、冬の降雪時にはそこからチロチロと地下水が噴き出します。夜遅くに新幹線で長岡駅に着いて、迎えに来てくれた祖父と一緒にタクシーに乗り、運転手と祖父の会話を聞きながら走るときに、前方の道路に降る雪の向こうにひざ下くらいまで吹き上がる水柱をじっと眺めていたことを思い出したのでした。「こんげな日は道路の上の水も凍るすけ、かえって危ねがて…」(新潟弁、間違ってるかも)


消雪パイプ: photo from wikipedia

与板の道は、そんな消雪パイプから出てきた錆の色でオレンジ色をしています。道路に引かれた白線が追い越し禁止の黄色線に見えてしまうくらいに。だから鉄の匂いではないけれど、錆の匂いは僕の鼻に鮮明に残っている。降り積もった雪が解ける頃、春先の朝早く、空気が湿っているときは特にそんな匂いがしました。

というのは僕の思い込みでしょうか。
Comments (5)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Who ?

2007-01-07 01:24:09 | 帰国・修論+αな日々
昼間はずっと冷たい雨が降っていた。寒くてマフラーなしで外は歩けぬ。

昼過ぎから大学へ。時々ウトウトしながら資料を読み進める。「Who sized the beams? 誰が梁の寸法を決めたのか?」というイギリスの論文。そろそろ修論もバックアップが必要ですね。夜ちょっとだけ抜け出して、地下実験室で環境系の友達の被験者実験に参加。古本屋に注文していた『小説 金属』の重金属篇・軽金属篇がぞれぞれ届いた。修論の参考文献というよりは、もはや趣味の領域。各章には金属元素の名前が当てられ、断章的にその元素の特徴が挿入されながら、19世紀から20世紀にかけての治金学をめぐる人物群像劇が脚色いっぱいドラマチックに展開される。最近右肩がしびれるように痛い。慣れない筋トレはやるもんじゃない。明日は全国的に強風大雪で大荒れの天気になるとの予報。
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

初夢(ではないけど)

2007-01-01 23:58:32 | 帰国・修論+αな日々

the Aerial Machine : from "builder" 1843

We now come to the last new wonder of the day...
It consists of framework of great strength and extraordinary lightness...

あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

暮れもおしせまり

2006-12-28 23:02:39 | 帰国・修論+αな日々
図書館で複写した鉄骨造に関する論文集を英文で読みながらレジュメをつくり、休憩がてら日本語で英国史や鉄の勉強。昼間は歴史系院生室の大掃除だった。

今日見つけた変なもの

「鉄はあらゆる金のうちで、最も賎しくて最も有益な、最も強力で且つ又最も柔軟な金属である。鐵は、我々のためにその性質を変じる。我々の意のままに硬くもなれば軟らかくもなり、弾性も帯びれば脆くもなる。鋳鉄にもなれば鍛鉄にも鋼鉄にもなる」

ドイツの文学者K.A.シェンチンガアによる“小説” 『金属(重金属篇)』の第三部『鉄』の書き出し部分。(独逸新興生産文学、藤田五郎:訳、天然社、1943)
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

たいまつ

2006-12-27 14:07:30 | 帰国・修論+αな日々


クリスマスプレゼントにもらった±0の懐中電灯torch。LEDランプの寿命は10万時間だから、およそ11年間光りつづける。(でも電池寿命は一日もたない23時間)


今日すずきせんせいに年内最後の修論エスキスの時間をとっていただいた。今まではエスキスと言いつつコンペの報告とか就活の報告とかがメインになってしまっていたので、修論の話だけをしたのは久しぶり、というより初めてかもしれない。

もともと僕は大学に入ったら建築史をやろうと思っていたはずなのに、いろんなめぐりあわせで予期していなかった建築生活を送ることになり(もちろんそのおかげで大変充実した大学生活だったが)、結果的に大学院では建築史研究室に入ったものの、自分は建築史院生らしくないことを求められているという思いもあり、「らしくないこと」を意識的にしてきたつもりだったけど、それが「こみやまくんは歴史をやるつもりがないらしい」と先生を嘆かせることとなり、僕のやってきたことを先生も面白がって認めてくれてるとは思うけれど、仮にも歴史系に所属した学生としては少し後悔もある。だから最後は歴史研らしく終わって恩返ししたいのだ。

----------------------------------------

title 19世紀英国の建築状況における「軽い建築」の受容過程について

0 建築の軽さを考えることについて 「君は自分の建物の重量を知っているかい」

1 「軽い建築」 軽快で、軽量で、(そして軽薄な?)
 1-1 建築がふたたびモノへと回帰する
 1-2 「羽ばたく飛行機」と「蛮王のための宮殿」

2 初期鉄骨造建築をめぐる19世紀英国の建築状況
 2-1 技術者と建築家それぞれの職能組織
 2-2 19世紀の建築思潮
 2-3 イギリスの社会情勢と世界戦略

3 鉄と鉄骨造の歴史
 3-1 <精錬法の変遷> 鋳鉄から錬鉄、そして鋼へ 
 3-2 <使用法の変遷> 補助材から構造材、そして表現材へ 
 3-3 <接合部の変遷> リベットから溶接、高力ボルトへ 
 3-4 <中心地の変遷> イギリスからアメリカへ 

4 建築に鉄が導入されていった背景
 4-1 鉄の導入を推進した人物たちの出自
 4-2 梁断面の変遷にみる建築部材の軽量化および効率化
 4-3 耐火性向上を意図した木骨組みから鉄骨組みへの架け替え
 4-4 生産・加工・運搬・施工
(4-5 機械設備の導入との関係)

5 建築の軽快さ(または軽薄さ)について
 5-1 鉄骨造建築をめぐる論説の整理とその技術史的考察
 5-2 「重量法則」という視点
 5-3 結果としての、非物質化とエフェメラリゼーションの萌芽

6 建築の技術と歴史 その直線的ではない進歩についての仮説

7 参考とした文献

----------------------------------------

ペヴスナーが近代建築運動の三つの源流として19世紀の鉄骨造建築・アールヌーヴォー・アーツアンドクラフトを挙げているのには、始めはなるほどと思ったけど、だんだん違和感をもつようになった。それぞれ対概念だったはずのものがドイツ工作連盟でひとつになるという歴史観には、どこか直線的なものを感じる。それぞれの共通項をくくりだして止揚しているからには、そこからこぼれ落ちた部分があるわけで、それが19世紀鉄骨造に関しては、材料や構法といったフィジカルな部分なのだと思う。むしろ現代はそうした側面、モノとしての建築という側面が重要視されているわけで、そこを拾い上げることがひいては、なぜハイテックはイギリスで誕生したのかということの説明にもなるのではないかと思う。直線上にのらない「クルドサック的技術」にもその時代なりのハイテク性はあったはずだ。だから僕の修論の裏テーマは、「建築の技術と歴史 その直線的ではない進歩について」。

この部分について先生に「そうなんだよ!」と共感してもらえたのでよかった。

エスキスの最後に先生は、「君がまとまった量の文章を書くのはこれが最後だろうから、君がこの先10年間拠って立てるような論文にしなさい。全部が同じ密度じゃなくてもいいから、今君が興味を持っている論点で、とにかくいっぱい書いておきなさい」と。「これが最後だろうから」という部分は寂しいし不本意だけれど、この先10年間僕の足元を照らせるようなものにはしたい。難波研→鈴木研(→松村研?)という変遷と、これから自分が進もうと思っている道を、照らしてくれるたいまつに。
Comments (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

たいまつ

2006-12-27 14:07:30 | 帰国・修論+αな日々


クリスマスプレゼントにもらった±0の懐中電灯torch。LEDランプの寿命は10万時間だから、およそ11年間光りつづける。(でも電池寿命は一日もたない23時間)


今日すずきせんせいに年内最後の修論エスキスの時間をとっていただいた。今まではエスキスと言いつつコンペの報告とか就活の報告とかがメインになってしまっていたので、修論の話だけをしたのは久しぶり、というより初めてかもしれない。

もともと僕は大学に入ったら建築史をやろうと思っていたはずなのに、いろんなめぐりあわせで予期していなかった建築生活を送ることになり(もちろんそのおかげで大変充実した大学生活だったが)、結果的に大学院では建築史研究室に入ったものの、自分は建築史院生らしくないことを求められているという思いもあり、「らしくないこと」を意識的にしてきたつもりだったけど、それが「こみやまくんは歴史をやるつもりがないらしい」と先生を嘆かせることとなり、僕のやってきたことを先生も面白がって認めてくれてるとは思うけれど、仮にも歴史系に所属した学生としては少し後悔もある。だから最後は歴史研らしく終わって恩返ししたいのだ。

ペヴスナーが近代建築運動の三つの源流として19世紀の鉄骨造建築・アールヌーヴォー・アーツアンドクラフトを挙げているのには、始めはなるほどと思ったけど、だんだん違和感をもつようになった。それぞれ対概念だったはずのものがドイツ工作連盟でひとつになるという歴史観には、どこか直線的なものを感じる。それぞれの共通項をくくりだして止揚しているからには、そこからこぼれ落ちた部分があるわけで、それが19世紀鉄骨造に関しては、材料や構法といったフィジカルな部分なのだと思う。むしろ現代はそうした側面、モノとしての建築という側面が重要視されているわけで、そこを拾い上げることがひいては、なぜハイテックはイギリスで誕生したのかということの説明にもなるのではないかと思う。直線上にのらない「クルドサック的技術」にもその時代なりのハイテク性はあったはずだ。だから僕の修論の裏テーマは、「建築の技術と歴史 その直線的ではない進歩について」。

この部分について先生に「そうなんだよ!」と共感してもらえたのでよかった。

エスキスの最後に先生は、「君がまとまった量の文章を書くのはこれが最後だろうから、君がこの先10年間拠って立てるような論文にしなさい。全部が同じ密度じゃなくてもいいから、今君が興味を持っている論点で、とにかくいっぱい書いておきなさい」と。「これが最後だろうから」という部分は寂しいし不本意だけれど、この先10年間僕の足元を照らせるようなものにはしたい。難波研→鈴木研(→松村研?)という変遷と、これから自分が進もうと思っている道を、照らしてくれるたいまつに。
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

円空の1+1+1+…

2006-12-15 11:07:37 | 帰国・修論+αな日々
数日前のアクセス解析を見ていたら「東大大学院 たった一人の友人」なんていうキーワード検索で僕のブログにたどりついた方がいらしたようです。事情はまったくわかりませんが、いろいろとドラマを感じてしまいます。僕はというと、「たった一人」どころではない友人たちに助けられつつ、残り少ない大学院生活を送っています。ロンドンから帰国する際にノートパソコンを取り間違えられるというハプニングはあったものの、それ以外はことのほか順調です(ときには思い通りにならないこともあったりはしますが)。昨日、留学から一時帰国中の友人に学内で呼び止められ、うれしくて思わず駆け寄ってしまいました。いつものことながら、彼と話していると、いろいろと決心がつきます(彼自身の強い決心に感化されてるだけかもしれないけどね)。ある調べ物をしていて、僕の高校のOBでもある糸井重里と奈良美智の対談にたどりつきました。弘前の煉瓦倉庫での展示を踏まえた対談なのですが、そのなかで糸井さんが面白いことを言っていたので書きとめておきます。

【糸井】:そういえば、ぼくはこないだ「ほぼ日」に、どういうわけか急に、円空のことを書いたんですよ。円空っていう人は、伝説では10万体とか14万体とか仏像を彫ったらしいんですよ。現存してるだけで5000体あるんですよ。いまの発想からすると、5000体っていう数は、複製して大量に生産するものですよね。でも円空はそれを全部手でつくってたわけです。つまり、オリジナルを大量につくるっていう発想。これからの時代に、それはものすごくおもしろいなって思ったんですよね。そんなことを思いながら、ここに来たら、奈良さんがやってることって、ズバリ同じで。
【奈良】:まあ、円空も、こう、似たような物ばっかりつくってますからねぇ(笑)。
【糸井】:で、円空も、すごい速度でつくったものと、じっくり時間かけてつくったものの両方があるんです。そのあたりも似てるよね。
【奈良】:ああ、それは似てるかも知れない。
【糸井】:計算してみたらね、年間200体くらいずつつくらないと間に合わないんです。それって、ものすごい分量ですよね。彫刻としてオリジナルを年間200個つくるんだから。
【奈良】:たぶんそれは信仰の力だと思う。
【糸井】:そういうことだよね。
【奈良】:やっぱり、なにかそういう、信じる力がないとできないですよ。ただの食うための仕事だとそんなことはできないと思うんですよね。だって、そんなにつくらなくても食えたりするわけだし。托鉢して、お経をあげているだけでも生きていくことはできたでしょうから、それでも彫らずにいられなかったってことは、何かその人以外の力が働いてたんじゃないかなあ。
【糸井】:これはぼくの想像なんだけど、「渡していく」っていうところに彼はおもしろさを感じてたんじゃないかと思うんです。
【奈良】:渡していく。残していく。
【糸井】:そう。残していく。いずれ朽ちてもいいから、できたものを置いていくっていう。それはなんか、素敵だよね。
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ロンドン

2006-11-28 11:06:28 | 帰国・修論+αな日々
二週間ほどロンドンに行ってきます。あとミュンヘン・シュトゥットガルトにも。
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする