ミュンヘンなんて、どこ吹く風

ミュンヘン工科大留学、ロンドンの設計事務所HCLA勤務を経て
群馬で建築設計に携わりつつ、京都で研究に励む日々の記録

追悼 リチャード・ホールデン

2019-04-07 20:25:01 | 群馬/京都・設計と教育
ミュンヘン・ロンドン時代を通じての恩師、リチャード・ホールデンが73歳でこの世を去った。去年の10月のことだ。
書き上げた博士論文を携えて、設計した近作の竣工写真を携えて、彼の元を再訪する夢は叶わぬものとなった。

その突然の訃報は、僕に届くまでしばらくの時間がかかった。京都大学への着任時にいただいたメールでの激励や、その前年にロンドンで昼食をともにしたとき彼がテーブルクロスに走り描いてくれたスケッチが、僕にとって今では遺言のように重いものになった。

奇しくも、僕が京都大学工学部・工学研究科の広報誌にリチャード・ホールデンとの思い出を寄稿したのが、その10月だった。原稿を書いている時、僕はまだ彼の死を知らなかったが、何か通じ合うものがあったのかもしれない。これは僕からの追悼文になった。
軽い建築(京都大学 工学広報 No.70所収)


ホールデンの愛弟子にして、HCLAでパートナーを組んだ同志でもあるビリー・リーが、RIBA Journalに寄せた追悼記事(Obituary)を以下に翻訳する。

原文は
https://www.ribaj.com/culture/richard-horden-1944-2018



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30年前に出会った時には筋書きに無かったはずの、彼とのこの早すぎる別れについてリチャードと話したことを思い出している。彼の元で1989年に働き始めたとき、私は23歳だった。私はその年の5月にアーキテクチュラル・レビュー誌で彼についての記事を読んだのだ。表紙には「将来有望なイングランドの新星」の文字が踊っていた。私はすぐさま自転車に飛び乗り、当時ゴールデン・スクエアにあった彼のスタジオへ行って働きたいと頼んだ。私はそこで最年少のスタッフとなった。

それからの素晴らしい29年間、彼と人生を共にし、今の私がある。二度の退職を経て、私が再びリチャードの元に戻ったのは彼がミュンヘン工科大学教授になったときだ。私たちは1999年にスティーブン・チェリーと出会い、共同でHCLA(ホールデン・チェリー・リー・アーキテクツ)を立ち上げることにした。

AAスクールを卒業後、テリー・ファレル、ニコラス・グリムショウ、スペンス&ウェブスターなどで経験を積んだのち、リチャードは1975年からフォスター・アソシエイツで働き始めた。1985年に独立。おそらく彼の一番有名な作品は、ヘリコプターで設置されたポータブルな山小屋、小さな「スキーハウス」のプロジェクトだろう。しかし、1980年代に物議を呼んだトラファルガースクエアのコンペで2等になったことや、キャリアの初期にウェストミンスターのエランド・ハウスやエプソム競馬場の女王観覧スタンド、アーコール社の家具工場といったプロジェクトを次々に実現したことも忘れてはいけない。

リチャードがアスベストを原因とする肺がんと診断されたのは今年(小見山注:2018年)の2月のことで、彼の娘ポピーはすぐさま私に電話で状況を伝えてくれた。私がプール(小見山注:ホールデンの自宅があるイギリス南西部の海の町)に彼を訪ねた時、リチャードはひどく落ち込んで見えた。彼は「ビリー、僕は建築に殺されるんだよ」と言った。次の日、リチャードはフォレスト・ホルム・ホスピスに入院した。改善された環境と、日光と風とせせらぎの音が適度に入る部屋で、彼の気持ちは少し回復したようだった。彼の状態が突如悪化したのは9月のことで、10月5日に帰らぬ人となった。

リチャードは、建築家であり、デザイナーであり、クオリティの第一人者であり、スイスを愛した男だった。若い頃の彼はビーチ・バギーをつくり、あるときはトニー・ブラックバーン(小見山注:DJ、ラジオ司会者)の彼女を奪ったこともあった。リチャードは語るのだった。私たちすべての命はかくもはかない。この地球に生まれ、人類とより良い環境のために少しでも貢献できたことがいかに幸運であったか、と。彼は穏やかなひとだった。それは、彼が両親ピーターとアイリーンのためにプールに設計した家「ワイルド・ウッド」のようだ。その家は今では文化財となり、家族の家は国家の宝となった。彼はまた、姉が仕事終わりや週末にセルフビルドで建てられるよう「ヨットハウス」もデザインした。

私たちは風向きに合わせて回転するタワーを一緒にデザインし、それはグラスゴー科学センターの一部として実現した。ツェルマットの山でスキーハウスの中に一緒に宿泊したこともある。彼は住宅を、工場を、タワーを、四角形や格子型に基づいてデザインすることを好んだ。いつも、すべては何らかのかたちで、数字の26、黄金比、あるいは色番号9002(スイス・シルバー・グレー)と関連づけ整えられるのであった。

娘のメイは私に「お兄さんを亡くすようなものね、彼はお父さんにすべてを教えてくれたんですもの」と言ったが、まったくそのとおりだ。

なによりも、彼はわたしたちに、いかにして勇気を持ちポジティブでいられるか、いかにしてクオリティのために戦うかを示してくれた。とりわけ、亡くなる前の数週間の間に。

彼の妻キャシーは20年前に、乗馬中の事故が元でこの世を去った。彼がその後も生きられたのは、彼の子供たちポピーとクリスティアン、そしてパートナーのリタ・カガがいたからである。

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今年(2019年)のOpen House LondonにはHCLAがスタジオとして初めて参加し、創設者である故リチャード・ホールデンの回顧展を行うそうだ。

HCL architects pleased to open our door to the public! – April 2019
Comments (2)
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着任しました

2017-10-01 22:09:04 | 群馬/京都・設計と教育
10月1日付けで京都大学 建築学専攻 建築設計学講座の助教に着任しました。
着任に伴い、今週から家族で京都に引っ越しました。
渡英・帰国以来のこの大移動を応援してくれた両親と家族に感謝しています。
新しい環境でよりいっそう励みたいと思いますので、
皆様には変わらぬご指導ご鞭撻のほど宜しくお願いいたします。

I have been appointed as Assistant Professor of Architectural Design, Department of Architecture, Kyoto University, Japan. I have then moved to Kyoto this week with my family, Tsutsumi & Kei. I feel grateful that my parents and family gave me a go ahead for this big decision since returning from UK. I will do my best at this new environment. Your continuous advice and guidance will be much appreciated.

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