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ミュンヘンなんて、どこ吹く風

ミュンヘン工科大留学、ロンドンの設計事務所HCLA勤務を経て
群馬で建築設計に携わりつつ、京都で研究に励む日々の記録

海外で働くということ

2009-11-04 09:14:39 | ロンドン・hcla
修士を卒業後すぐに渡英し、ロンドンで働き始めてから三年目である。

ビザの関係で一時帰国していた期間を除いても、実質的にちょうど二年が経った。ビザに関していえば、あと3年はここで働くことができる。

初めて最初からすべて担当した小さな現場の物件が、あと2工程くらいで終わる。certificate of practical completionなる書類はもう準備できていて、snaggingしたあとにそれを発行すれば工事は終わる。ここで学んだことを次につなげたかったので、もうひとつ新しく入った小さな改修の仕事を次に担当させてもらうことにした。まだ誰も手をつけていない仕事。先輩に教えてもらいながら書いたscope of worksも、今度は自分で書ける。

ここのところ寝る前に枕元でよく考えることがあって、最近耳にしたふたつの話が心に引っかかっている。

先月来英された大学時代の先生の、コンドルについての講演を拝聴したときに聞いた、コンドルはなぜイギリスへ帰らなかったのかという質問に対しての答え。
「建築はクラフトマンシップではなくシステムであるから、イギリスに地盤を築いてこなかったコンドルは日本でしか働くことができなくなっていたのです」

友だちに教えてもらって読んだ、海外留学経験のある若くして活躍されている建築家さんのブログの一節。
「帰国子女で英語が全く不自由しないか、まとまった実務経験がある人もいるが、そのどちらもない自分がそのまま就職を試みてかたちとして「海外で働く」ということになっても、単なるCG係、もしくは模型係となってワークショップの片隅で黙々とヒートカッターの技を披露するだけなのではないかと」

大家さんが自伝を書いている。

両親と絶縁寸前な状態でインドネシアから単身渡英して、文字通りの底辺から這い上がって今では複数の会社で顧問をしている。周囲を注意深く観察しながら研究し、自分で自分の住みやすい環境をつくり、自分にしかできないことを積み上げていった。今では彼女がいないと会社が回らないから、社長たちは何事も彼女の意見を聞いてから物事を決めるようになった。自伝の第一部は、facebookで旧友と再会し、恋に落ちるところで終わるらしい。(それはほんの数ヶ月前に起こったことなのだが)

厳しい不況のイギリスで、曲がりなりにも、平社員としては最後のひとりになるまで会社に残ることができて、研修時代から考えれば、いてもいいひと→いてほしいひと→いないとダメなひと、とステップアップしてきたことは誇れるとして、実際のところ、いまようやくスタートラインに立てているところなのだという思いが強まっていた。二年経って。会社が「パートⅢ取得後5年以上の経験のあるプロジェクトアーキテクト」をテンポラリーで求人していたりするのを見て、自分には求められてもいない(求められてもできないけど)ことがまだまだあるんだと落ち込んだりもする。

自分がだんだん日本と英国の中間領域に向かっているのではないかと思うときがある。心に引っかかっていたのはそういう部分。

大家さんはひととおり僕の話を聞いてから、日本に帰るときがいつなのか、自分がいちばんよくわかっているはず、と言ってくれた。そう、まだ今じゃない。

あれができるようになればこれをやらせてもらえそうだ、というチャンスがまだまだ目の前にたくさん転がっているのがいまの状況。まだできるというモチベーションが続くかぎり、僕はまだここにいていいのだと思うことにした。僕の次のステップは、「パートⅢ取得後5年以上の経験のあるプロジェクトアーキテクト」にもできないことを次の三年間のうちにここでたくさん築き上げることだと思う。
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