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ミュンヘンなんて、どこ吹く風

ミュンヘン工科大留学、ロンドンの設計事務所HCLA勤務を経て
群馬で建築設計に携わりつつ、京都で研究に励む日々の記録

もう時間の感覚が

2007-01-30 06:23:06 | 帰国・修論+αな日々
もう時間の感覚がメチャクチャデス。

スイスのVIVIANというロック(?)バンドの5月に発売されるアルバムのデザインに、僕がスイスで撮影した教会の写真が使われることになりました。年明けにマネージャーの方から写真を使わせてくださいとメールをもらい半信半疑だったのですが、彼らが今までに発売したアルバムが先週送られてきたので本当みたいです。どんな風に使われるのかよくわからないのですが、楽しみにして待つとしましょう。

修士論文なかなかてごわいです。梗概をつくりだすと本文にも変更点が多々…。

クリスタルパレスのポリクロミーについて
『水晶宮物語』のなかでも簡単に触れられていたのですが、それが何を意味していたのかについては決定的な言明を見出せませんでした。
Comments (2)
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打ち止め

2007-01-27 04:50:14 | 帰国・修論+αな日々
今日でとりあえず本文は打ち止めにして、いままで梗概書いてました。寝ます。
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提出だいたい一週間前

2007-01-26 05:06:15 | 帰国・修論+αな日々
図書館が閉まるまでは資料のコピー。それを踏まえて、晩ゴハンを食べたあとは本文の追加。そのあとさっきまでは図版のスキャンと整理をしていた。寝ます。
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鉄鋼生産量の推移

2007-01-25 02:50:33 | 帰国・修論+αな日々
今日は一日、書きかけたまま資料不足で中断してあった部分の穴埋め作業をした。明日もこのつづきをする予定。今週中に梗概の手直しをして、もう一度誰かに見てもらおう。週末に図版の整理ができたら来週がだいぶ楽になるなあ。…などと計画を立てて安心したくなるのは、修士論文の提出が近づいているからです。

鉄鋼生産量の国別シェア(『CONSTRUCTION HISTORY』記載のデータより作成)


赤いのがイギリスで、その隣からフランス、ドイツ、アメリカ、その他とつづく。1870年から1910年まで五年刻みのデータである。円の面積は1870-1875年の1,860,000トンを基準として生産量の増大を表す。下から四番目の1890年に黒いアメリカがイギリスを逆転する。ドイツとフランスのシェアにはほとんど変化がない。

19世紀後半、イギリス鉄鋼業は、ドイツやアメリカなどの大量生産国の興隆に対抗するため高級鋼生産へと重点を移し、大陸からは半製品の輸入が増え始める。
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溶接について

2007-01-24 02:34:44 | 帰国・修論+αな日々
夜はミュンヘン留学の同期四人で飲む。そのうちの一人が来月から大学のプログラムでイタリアの設計事務所に派遣されるので、その壮行会にかこつけ久しぶりに。みなスタジオも同じだったので、思い出話やスタジオメンバーの近況、自分たちの進路など話す。僕は修論の暫定版を見てもらったり、ロンドン就活話をする。AtoZカフェでゴハンを食べて、近くの居酒屋でうどんすきをつつきつつ終電まで。

・・・

二極間の放電火花を用いるアーク溶接法は19世紀の終わりにロシアで発明され、まず造船業で適用された後に建築でも使われるようになったが、それ以前にも、部材を炉内で突き合わせるといった手段での初歩的な溶接合は行われていた。しかしそれも錬鉄が登場してからで、鋳鉄しか手に入らない時期には溶接は不可能だった。なぜなら、鋳鉄はその炭素含有量の多さのために、高温に熱すると割れてしまうからである。ちなみにボガーダスの(友人が記したという)鋳鉄建築の解説書のなかには、接合部について次のような記述が見られる。

ここで注意すべきことは(中略)ボガーダス氏はつねに各部材を結合す直前に各接触面にペンキを塗って接合部を完全に気密にするようにしていることである。この説明から明らかなことは、ばらばらの部材は全体として一つの安定したものになるように結合され、強度の点で単一の鋳鉄体と同じになることである。
「J.ボガーダスの鋳鉄建築(その構法と利点)」『建築雑誌195809』より

このボガーダスの解説書、今にして考えれば突っ込みどころが満載なのだが、当時鋳鉄建築が立たされていた立場などがうかがい知れて面白い資料である。

一度建てられた建物も各部分を損傷せずに容易に解体し、最初のと同様に完全に再び建てることができる。(中略)この性質は非常に重要なことである。鋳鉄の建物は現在のみならず、永久に国家の富としてのこるからである。(中略)破壊のかわりに今後は移動―単なる位置の変更―のみとなるであろう。
(同上)

1856年のアメリカで記されたこの解説書では、イギリスの鉄骨造建築はしばしば不完全なものとして指摘される。なぜならボガーダスが目指したのは、土台まで鋳鉄(基礎はさすがに石だけど)の文字通りの鋳鉄造建築だったからである。
(ただし錬鉄・鋼についてはまったく言及されていないところが注目に値する)
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キューガーデンの温室

2007-01-23 01:14:44 | 帰国・修論+αな日々

the Palm House at Kew Gardens/2006年12月9日撮影

鋳鉄梁から錬鉄梁へ、という変遷の具体例として挙げようと考えているのが、キューガーデンの温室である。クリスタルパレスよりも先行する1848年に完成したこの温室は、デシムス・バートンとリチャード・ターナーのコンビで設計がなされた。同じくバートンがパクストンと共同し1840年に完成したチャッチワースの大温室を参照しつつも、こちらは錬鉄造である。当初はチャッチワース同様に鋳鉄造として設計がなされたが、追加予算を捻出して錬鉄造で設計がやり直されたという経緯がある。ここで追求されたのは、より多くの太陽光を取り入れるためのできるだけ細い骨組みであった。鋳鉄を用いた場合、欠点である曲げへの弱さを補うため梁材が太くなってしまう。そこでターナーは、当時特許が取得されたばかりの錬鉄製甲板梁を応用することにしたのである。造船業からの技術移転。これにより、断面でかなりのスリム化が実現され、重量が軽くなったおかげで柱も細くて済んだのだ。


from "Richard Turner and the Palm House at Kew Gardens"
/E. J. Diestelkamp

温室はターナーが自ら持ち込んだ企画にもかかわらず、評議会の方針で実績のあるバートンが主導権を握るかたちで設計が進められた。外観のプロポーションはバートンの意向が優先されターナー不在のまま実施図面まで引かれたが、結局詳細はその後ターナーによって建設途中にほとんど変更されることになる。バートンとターナー、植物園側の責任者との往復書簡からは、ターナーがバートンを立てつつも、肝心なところでは自分の意見を植物園側に主張して認めさせていたことがわかる。ちなみにそうした技術をバートンは逐一特許申請している。

資料を読んでいて思うのは、「実験をして」「試験をして」という表現の多さと、特許申請された造船技術が翌年には建築に移転されているというスピード感。

ちなみにイギリスでは窓に税金をかけていたガラス税が1845年に撤廃される。
Comments (8)
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軽~い建築

2007-01-20 03:38:46 | 帰国・修論+αな日々
「君は、自分の建物の重量を知っているかい?」

これは、イギリスのハイテック建築家ノーマン・フォスターが、後に彼の代表作となるセインズベリーセンターの現場を訪れた際に、同行したバックミンスター・フラーから質問されたとされる問いです。

僕は大学院で鈴木博之研究室に所属し、近代建築史を専攻しています。

最近の興味はハイテックとその“軽さ”についてです。部材質量あたりの性能を高めて軽量な構造を目指すハイテックの思想は、現代におけるサステイナブルデザインのエネルギー志向でアクティブな一翼を担っています。修士論文では19世紀イギリスの鉄骨造建築のディテールを調べてみようと思っています。そもそもハイテックはいかにして生まれたのか、その源流を探ろうと思ったのです。装飾材としての鋳物からスタートした鉄が、その本来の“軽さ”を手に入れるまでの変遷史。

今年の春まで留学していたミュンヘン工科大学では、イギリス人建築家リチャード・ホールデンの指導を受けました。彼はフォスター事務所出身で、極小建築や局地建築を得意とするハイテック建築家です。資源もエネルギーも限られた状況で建築はどうあるべきか。“軽く”あるべきである。冒頭のフラーの質問に答えたのも当時セインズベリーを担当していた彼だとされています。

彼は僕ら学生をカヤックの工場やパラグライダーの格納庫に連れて行きスケッチをさせました。それら“軽い”構造体において支配的なのは、地面に向かい一方向に働く重力ではありません。浮力や上昇気流など、より微細で複雑な力に対して設計された繊細なディテールが要求されます。

第一次世界大戦時、戦闘機はすべて木製だったそうです。当時、木は単位質量あたりの強度が最強だったのです。第二次世界大戦時でも、イギリスの主力戦闘機は木製でした。安価で軽量な合金が開発される前の時代の話です。「単位質量あたりの強度」とは、比重、引張り強さ、ヤング率(しなりやすさ)、比強度(剛性)、耐候性などから評価されます。それらとコストとのバランスによって材料は選択されるわけです。カヤックの歴史をたどると初めはやはり木製で、アルミニウム、カーボンと進化してきました。

しかし建築が構造的に進化し“軽さ”を手に入れるにつれて、それまでの重厚な建築がもっていた躯体の熱容量や防音性は失われ、シェルターとしてのその環境的な「頼りがい」は失われていきました。それが今に続く機械設備史誕生のきっかけだったと言ったのが、『環境としての建築』の歴史家レイナー・バンハムでした。バンハムはその著書の終章で、アーキグラムの言葉を引用してこう予見します。
「アーキグラム8の中には建物は一切ないかもしれない…」(『アーキグラム7』)
機械と建築はボーダレスになり、環境化した“軽い”建築は空気のように人間を取り巻く、のか…?

フラーの質問に対しホールデンは正確な数値を計算して応え、最後にこう付け加えました。「ゆえに、単位容積あたりの重量は、ボーイング747型機よりもずっと軽いと言えます」ボーイング747は当時最新鋭の超大型旅客機。フラーはそれを聞いて大変満足したとのことです。

“軽い”建築を考えること。それは建築を成り立たせている仕組みや技術に意識的になること。

「君は、自分の建物の重量を知っているかい?」


おとといの投稿で話題に上ったので再録してみた。(初出:2006年6月8日)
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リヴァプールの商人

2007-01-19 01:37:28 | 帰国・修論+αな日々
エヤムボ王ネタのつづき。彼がリヴァプールの鉄商人に鉄の宮殿を建造させたことは以前書いた。さて、ナイジェリアとリヴァプールを結びつけるもの。かつてリヴァプールはイギリス最大の奴隷輸入港だった。奴隷貿易廃止後も、蝋燭と石鹸の製造業の一大中心地を抱えていたため、リヴァプールはパーム油のヨーロッパ最大の輸入港としてナイジェリアとなかば独占的に深い関係を保ち続けた。彼らは、一回の航海でおよそ千樽のパーム油を運んだといわれている。そんな彼らがリヴァプールからの積荷としてナイジェリアに持ち込んだものは鉄骨造のプレファブ建築、…ではなくて、主にラム酒と弾薬だったと言われている。ちなみに商人たちが手数料として王に支払っていた輸出税のことを「コミー」といいます。 閑話休題。

(でもイギリス製の鉄骨造プレファブ建築が世界中に輸出されたのは本当である)
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細菌か毒気か

2007-01-18 01:33:07 | 帰国・修論+αな日々
週末に図書館が閉館してしまうので、ここぞとばかりに英国史の本を読んでいた。

感染病に関する「接触伝染説」すなわち細菌説と「非接触伝染説」すなわち毒気説に関する話が面白い。後者は今考えれば明らかに誤っているにもかかわらず、1830~1860年代においては多数派の学説だったらしい。その背景には、細菌感染説に基づく検疫制度を自由貿易上の足かせと考えた新興ブルジョワ階級が圧力をかけていたとも。加えて、黄熱病の研究者が人から人へ移る細菌を発見できなかったことからも、細菌感染説は「非実証的である」として攻撃された。その頃、ヨーロッパではコレラが流行している。このときに当時の検疫制度の無力さが露呈して、接触伝染説はますます劣勢になる。1849年には政府が公式に毒気伝染説を認めて、それに基づく国民健康法を制定して都市の衛生改革を行った。でも実際の施策は下水道の整備とかだったので、細菌が水の汚染で伝播するのを防ぐという意味では結果的に正しいことであったから、一定の抑制効果はあった。その後、顕微鏡によってコレラ菌が発見され、毒気を原因とする非接触伝染説は打ち砕かれたのだという。

当たらずとも遠からずってトコが、フロギストン説みたいなものですね。
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論文の重量?

2007-01-17 00:54:44 | 帰国・修論+αな日々
今日のすずきせんせいとのミーティングを踏まえ、僕の修士論文『19世紀英国の建築状況におけるlight constructionの受容過程について』は、主査を鈴木博之教授、副査を難波和彦教授と松村秀一教授にお願いすることになりました。

僕が持参した本文の厚みを見るなり先生は「君は自分の論文の重量を知っていますか?こればっかりは断面がスマートなほど良いとは限りませんよ」とニヤリ。

外国人に見せることも想定して、図版はたくさん載せるべしとの助言をいただく。
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