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ミュンヘンなんて、どこ吹く風

ミュンヘン工科大留学、ロンドンの設計事務所HCLA勤務を経て
群馬で建築設計に携わりつつ、京都で研究に励む日々の記録

弟が来た

2010-03-25 08:14:35 | ロンドン・hcla
大学の卒業式と会社の研修の合間をぬって、弟がロンドンに遊びに来た。家に泊まっている。来週ロンドンを去る先輩から昼に連絡をもらい、夜は弟と先輩夫妻の4人で、家の近くチェコレストランでご飯を食べた。
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constraints

2010-03-16 06:56:20 | ロンドン・hcla
イギリスのある場所のいろいろな地図を見ている。歴史的な変遷の地図、地盤調査の地図、地下に巡らされたインフラの地図、地権者の地図、賃料の分布、旅客機の航行経路…。建物が建てられ、取り壊され、また建てられ、所有者が変わり、敷地境界線が変わり、あるものは打ち捨てられ地下深くに放置され、あるものは掘り返されてまた埋め戻される。それらの堆積が、広い意味でのconstraints(制約)となって、敷地全体に分布している。そうしたconstraintsが現在の街区を決定付け、その街区がまた新たなconstraintsを形成しているから、偶然によって引かれたはずの線は時とともに動かせない線となっていき、そうした無数の補助線を前に、カタチとしての大きなアイデアは散り散りに刻まれていく。でも対象敷地に引かれた大きな赤枠のなかには、街区を横断した関係性や新しい境界がそこかしこに生まれているから、そうした見えない要素の重要性がときに物理的に確かに見えていたものを壊す十分なきっかけになったりもする。ゆっくり成長していかなければいけないものをデザインしています。
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客人

2010-03-09 08:54:40 | ロンドン・hcla
大学の先輩の同期の方のご友人の構造家の方がイギリスに訪ねてきて、土曜日に一緒にロンドンを回った。京都でひとり自分の構造事務所を切り盛りしてるこの人は、たいへん物知り(海外通)であった。リクエストを元に一緒に回ったのが、以下のもの。建築を見ていても、構造にはむしろ目は行かないらしい。

Camden Arts Centre (Tony Fretton)
Busaba Eathai(昼飯)
Gagosian Gallery Davies Street (Caruso St John)
MODERN ART (David Kohn)
RIBA BOOK SHOP
Gagosian Gallery Britannia Street (Caruso St John)
Antony Goemley Studio (David Chipperfield)
St.Pancras Station (G.G. Scoto/W.H.Barlow/Norman Foster)

昼ごはんを食べながら、この二週間で回ろうと思っているという建築リストを見せてもらった。時間刻みで、ダブルブッキングがあったり、瞬間移動があったり、一件到底無理なスケジュールに見えた。僕と会う前にロンドン動物園とクリケット場に行っていて、僕と別れたあとに大英博物館へ向うようだった。「寒いので、少し早歩きしましょうか」バスを待つ間も惜しいという感じだった。

RIBAの本屋では先月foaを退職された先輩にたまたま出くわした。帰国前にまとめ買いするべく、Amazonでリストアップした本の「中身」を確認されに来ていたらしい。英国Amazonで買って海外発送するか、日本で洋書として買おうか迷っているようだった。構造家さんは、そのリストを見るなり、日本円の値段をすらすらと挙げていった。おそらくすべての本を目にしたことがあるらしかった。「この方、やっぱり英国でも有名なんですね」「そうなんですか?知らないで選んでたんですけど」「え、ご自分の嗅覚だけでこの本を手に取られたんですか?」その驚き方があまりにも素直な感じだったのでふたりのやりとりをそのまま書きました。

曜日は関係なく働いて、締め切りの翌日が休日。ときどき時間をつくって海外の建築を見に来ているらしい。お土産を持ってきてくれるというのでBRUTUSの今週号を頼んでいた。日本の地方都市の特集号なので読みたかった。僕は地方で働く話をした。本拠地にしている京都だけでなく、そのひとはほかの地方の建築家にも詳しいようだった。日本ではいろいろなことが起こっているんだなと思った。
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ハイテックについて、鉄について

2010-03-04 05:29:56 | ロンドン・hcla
(ロンドンにきてから考えていることと、難波研ポートフォリオのために思い出している大学のときに考えていたこととが、微妙につながってきたのでメモを残します。卒業論文DECo修士論文、hcla。)

ハイテックについて、鉄について 

初めてロンドンに就職活動で訪れ、ハイテック系の設計事務所ばかりをポートフォリオ片手に回っていたとき、相談に乗ってくれたロンドンで働く先輩から怪訝そうな顔で聞かれたことがありました。

こみやまくんはハイテックを過ぎ去った時代のスタイルだと言っているように聞こえるけど、ではなぜそこで今働きたいの?

*
ちなみにハイテックとハイテクとは全然違う言葉だと思っています。ハイテクはモノそのものが結果的に会得している性質で、ハイテックはそのモノのつくられ方のコンセプトです。だから、ハイテクだけど表現としてはハイテックに見えないものもあるし、ハイテックスタイルだけど実情はローテクというのもありえます。
*

ハイテックスタイルは歴史の教科書に出てくるようなひとつの運動だったと思います。偶然の出会いとこれまでに学んできた知識によって自然と僕はハイテックが好きになりました。これは、好きな色は青、みたいなもので、僕の好みに過ぎないかもしれません。ハイテックは、その持って生まれた新技術との親和性故に、その一部はサステイナブルデザインと名前を変えて、生き続けています。その意味では、ハイテックは今に生きるモダニズム(マシンのイメージ)の残り火であると言えるかもしれません。でも、ハイテックは、後に述べるその特徴ゆえに、現代の問題にも真摯な答えを出しうる余力が残っているとも考えています。

難波研ポートフォリオに載せるために、自分の卒業論文を読み返す機会がありました。

「Norman Foster meets Richard Buckminster Fuller」というタイトルは慣用句のboy meets girl(類型的な物語)を踏まえたつもりで、フラーとフォスターの師弟関係という特殊な出来事を詳細に追いながら、それを、アンビルドイングランドからハイテックを経てサステイナブルデザインへ、という普遍的な物語の類型として見せたいという意図がありました。

シングルスキンとダブルスキンをめぐってフラーとフォスターが対立した、というくだりは、太田浩史さんの仮説(『GLAの背後にあるもの』GLASS & ARCHITECTURE 2003春)に全面的に基づいています。卒業論文では、そこから出発し、なぜその対立に至ったのか、その対立のあとにふたりはどうなったのか、という順番で前後両方向に歴史を辿っていきました。その結果、ふたりの「師弟関係」は次のようなフェイズに分けることができると思い至りました。

1 サミュエルベケット劇場
出会い フラーが思考するコンセプトの明快さにフォスターが衝撃を受ける

2 クリマトロフィス 
当時の技術では不可能とわかった上で思考実験を行い、フラーの思想がピュアなかたちでフォスターに継承される

3(セインズベリーセンター) 
フォスターはフラーの理想(シングルスキン、自由な曲面)を具現化しようとするが挫折する。しかし挫折の先に新たな方法(ダブルスキン)を発見する

4 国際エネルギー博パヴィリオン 
フラーの理想とフォスターの新しい方法(現実的解決法?)が対立しプロジェクトが空中分解する

5 フラー自邸 
ダブルスキンが二重の独立したシングルスキンとして読み替えられる。フラーの死により未完に終わる

6(GLAあるいはSwissRe) 
フラーの理想に近い形でフォスターがクリマトロフィスを物理的に実現する(自由な曲面)

7(大英博物館グレートコート) 
フォスターが自由な曲面を用いて次のステージ(歴史的隣人との対話)に進む

卒業論文は、当初6までで終わるはずでした。でも提出直前になって7が加えられました。それは、自律して完結した建築の実現が最終的な答えであってはいけないと思ったからです。そして、事実フォスターはその先に進んでいました。フラーの理想の実現が達成されたのちに、フォスターはその自由なジオメトリー操作を使って、歴史的建造物をリノベーションした一連の公共空間を手がけていきます。大英博物館では、本館と図書室をつなぐように中庭に屋根が架けられますが、屋根に使われたガラスパネルはすべて違うカタチをしています。それは、大英博物館の中庭に対して既存の図書室が中央よりわずかにずれて建設されていたためです。結果、大英博物館本館と図書室の間でグリッドがゆがまざるを得ませんでした。コンピューター解析がなければ生産も施工も不可能な、既存に対するラディカルな応答です。

技術の進展は、答えを複雑にするのではなく、むしろシンプルにします。大英博物館を訪れて、屋根のパネルの形がすべて違うことに気づく人はいないでしょうが(全体としては自然なので)、自由な曲面は、既存建物との間にサイトスペシフィックな応答関係を築いています。

技術は、他者(人であり、モノであり)とのコミュニケーションを可能にするメディアなのだと思います。

フォスターは70年代の時点ですでに技術のその可能性に気づいていました。カタログに載っている建築部材も注文してからつくられる。だからそこにはコミュニケーションが介在する余地がある。建築家が技術をコントロールできれば部品はカスタマイズ可能であるというようなことを言っています。標準化•規格化の本質は、建築家を一方向的なカタログショッピングに陥らせることではない。標準化と規格化は部材に豊かな社会的意味を付与するものではあれど、それそのものによって思考停止を許されるような前提条件ではない。

友人の参考にしてもらうため、修士論文も読み返す機会がありました。『19世紀英国の建築状況における「軽い建築」の受容過程について』。修士論文で言いたかったことは、発表会用原稿の最後に書いてありました。

「19 世紀の鉄骨造建築は、その後の近代建築運動への連続という視点から、近代的な空間表現の図像的な起源として建築家が解釈することではじめて、歴史的な意味を与えられてきたように思います。そうして歴史からこぼれ落ちた部分が、19世紀鉄骨造に関しては、材料や構法といったフィジカルな部分なのだと思います。19世紀の鉄骨造は当時の科学水準や社会的要求に基づいたハイテク建築でした。そしてそれらの発展に寄与し促進したのは鉄道駅舎や工場建築だけではなかったのです。そうしたモノとしての建築という側面に注目し、その部分を拾い上げることがひいては、なぜハイテックはイギリスで誕生したのかということの説明にもなるのではないかと思います」

ハイテックはなぜイギリスで誕生したのか、なぜ僕はハイテックに魅力を感じるのか。それはハイテックはスタイルである以前に「attitude態度/姿勢」であると思うからです。知らないものを知ろうとする謙虚な姿勢。フラーは、バンハム(ら、インデペンデントグループ)によってイギリスに招聘されフォスターと引き合わせられました。イギリスのハイテック建築家たちはフラーを評価し、理解しようとしたのです。

19世紀英国の初期鉄骨造建築は、越境的であるという意味で、ハイテックなattitudeに基づいていました。鉄というメディア(材料)が、産業の大小のスケールを超えて、時間と場所を超えて、分野を超えた人々の共通言語となりました。鉄は、最新の研究成果が常にフィードバックされるスター的材料であり、国家の威信をかけた国際社会における政治的道具であり、災害から国民の安全を守るための希望でした。それら様々な要請はけして直線的にひとつのゴールに向かったのではなく、多くのクルドサックな技術を乱発しながら、紆余曲折を経て「真なる」鉄骨造建築に向かっていきます。無知による無駄がそぎ落とされ技術が完成に近づいていく(軽い建築)という意味で、それはハイテックの源流でした。

セントパンクラス駅の建設では、エンジニア、建築家、クライアントが、鉄骨をいかに表面処理するべきかという点で議論したことが記録に残っています。技術とデザインと社会がそれぞれの立場から同じトピックを議論することが可能だったのです。そこには、彼らが共有できるもの、共通の言語があったのだと思います。乗り越え退けるのではなく、他者を理解し協力し合えるような。

「環境」は、様々な分野・異なるスケールでなされているひとびとの思考をつなぐ媒介になっているというところに、19世紀における「鉄」との相似があります。ハイテックな姿勢には、可能性があると思います。
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生々しい

2010-03-02 08:10:30 | ロンドン・hcla
去年の冬に元同僚と一緒に出したけど勝てなかった実施コンペ。結果が出てからしばらくたって、再びニュースの記事になっていた。

http://www.architectsjournal.co.uk/news/daily-news/-council-conditions-force-kiosk-contest-architects-to-quit/5211674.article

一等になった若い建築家二人組が三ヶ月たっても市役所と契約を結ぶことができず、代わって二等案が契約されそうだという。二人(いずれも別事務所に勤務中)は、契約書に加えられた「法外で過酷な条件」によってこれ以上プロジェクトを進められなくなったと身を引いたようだ。市役所側は、この早い段階で申し出てくれた正直さに感謝する、みたいなコメントを出していた。二等案のほうが面白いと思っていたから結果的によかったような気もするけど、生々しいなあ。
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鉄骨の塗装

2010-03-01 06:57:19 | ロンドン・hcla
フォスターにより改修されたセントパンクラス国際駅の大屋根。スカイブルーの塗装は当初のデザインを復刻したものとばかり思っていたら、そう単純ではなかった。鉄骨の塗装の分析から、竣工時から改修時までの百数十年間に18回の塗りなおしが行われていたことがわかっていて、オリジナルはこげ茶で次に空色に塗り替えられたらしい。

1877年のホテル部分オープン時(駅は1868年から稼動していた)にホテルの支配人Allportが、「駅舎の大屋根は空色であるべきではないか?」と挨拶したとの記録があるらしいので、その後塗り替えられたのだろうか。エンジニアのBarlowと建築家Gilbert Scottと支配人Allportの間には、鉄骨は何色に塗られるべきかで論争があったことが議事録に残っているらしい。

『The Transformation of St Pancras Station』(Alastair Lansley, Laurence King, 2010)というセントパンクラス駅改修のドキュメント本をRIBAの書店で見つけ、『Victrian Architecture』(Roger Dixon and Stefan Muthesius, Thames & Hudson, 2008)と合わせて拾い読みしている。

    

鉄骨造建築は何色に塗られていたか、という疑問は、19世紀イギリスの鉄骨造建築を追った僕の修士論文でも最後にちょっとだけ出てきた話題である。もちろんさび止めの目的もあるのだろうが、ポリクロミー等の当時最新の建築史的研究成果の影響もあり、鉄骨は積極的に塗装され、立体的な装飾を施されない場合でも構造以上の意味を持たされていたようである。クリスタルパレスのインテリアは、Owen Jonesによって、青赤黄の三原色で彩られていた。

彩色や模様文様は、19世紀に再発見され分析されて、その構成原理が建築に持ち込まれた。Owen Jonesは、パターンを表面上模倣するのではなく、その背後にある生成システムを分析しデザインに活用することを説いていたという。Owen Johnsの『装飾の文法』は、最近出たCaruso St.Johnの『Almost Everything』という論文集にも登場しているくらいで、今でも参照されつづけているようだ。

イギリスで研究員をされている大学の先輩に誘われ4月にスペインを旅行することになった。ミハスの白い家、グラナダのアルハンブラ宮殿。アルハンブラ宮殿は、Owen Johnsが19世紀半ばに6ヶ月間に渡って滞在し詳細に調査し、のちに『装飾の文法』をまとめるきっかけとなった場所。楽しみ。
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