顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

キンシバイとその仲間たち

2020年07月10日 | 季節の花
オトギリソウ科のこの仲間に品種改良で新しい仲間が増え、ますます区別が難しくなりました。

散歩道の野生化しているキンシバイ(金糸梅)、区別するポイントの葉の出方は対生で、葉の形は肩の部分が太い卵状長楕円形ですが、一番わかりやすいのは命名由来の金の糸のような雄蕊と梅のような花弁です。

この雄蕊は受粉の役目を果たすと束ごと落ちて子房だけが残っているのが、写真の左下で確認できます。

よく似ているビヨウヤナギ(未央柳)は、花弁より長い雄蕊が特徴で、葉は十字対生で柳のように細いので区別できます。
玄宗皇帝が未央(びおう)宮殿の柳を楊貴妃の眉に喩えた故事に因んだ命名とされ、江戸時代まではビオウヤナギと呼ばれていたのが、ビヨウヤナギになり漢字も美容柳、美女柳と書くこともあるようです。

ところが、2か所の公園で見たこの花は?覚えたての花の区別では雄蕊が短いのでキンシバイ、待てよ、葉の出方は十字対生もあるからビヨウヤナギ?えっ交雑の結果?……、調べてみると、これは品種改良されたヒベリカムヒドコートという品種でした。

大輪金糸梅ともよばれ、花弁は全開して大きく花も多数付くので、最近は公園などの植栽によく使われるようになったそうです。
やはり雄蕊が束ごと落ちて子房だけの花が真ん中上に見られます。

この仲間たちは私の歳時記には載っていませんが、未央柳は夏の季語として使われているようです。

又きかれ未央柳とまた答へ  星野立子
未央柳こぼれ初めてより頻り  白石時子
糠雨に少し乱れし美女柳  安斉君子

清音寺…罹災三度の古刹と「初音」茶

2020年07月07日 | 歴史散歩

城里町下古内にある太古山獅子院清音寺は、案内板に書かれた由来によると「大同4年(809)に弘法大師が草庵を設けたのが始まりとされ、承和4年(837)真雅僧正が浄光寺と号し、仁明天皇より東夷鎮護山の勅願を賜り、その後、源頼義、実朝が厚く崇敬したが、嘉禎3年(1237)兵火罹災した。


文和元年(1352)に佐竹氏9代義篤が父の貞義の追善の為に名僧、復庵大光禅師を招き開山とし、大伽藍を建立して臨済宗に改め、独立本山として現在の山号、寺号となり、関東屈指の臨済宗の林下修業道場となった。天正8年(1580)再び兵火にあい、また佐竹氏の秋田移封の後衰えた。



元禄の初め水戸光圀公が当山の禅境を愛し、徹伝、大忠両禅師と詩友として再度来山され名吟等を残し加護され、公の上申にて京都五山の上、南禅寺派に属した。
図らずも明治維新の廃仏希釈により寺領石高を失い、寺宝、建物なども四散した…」とあります。


佐竹氏の菩提寺だったので「五本骨扇に月丸」紋が掲げられています。
開山堂西側の墓地には、三基の宝篋印塔があり、手前から佐竹氏9代貞義、清音寺開山の復庵大光禅師、10代義篤の墓になります。凝灰岩で作られ中央の塔が1.4m、立方の型や下台の蓮華五弁の深彫り形式から南北朝時代の建立とされます。

鎌倉時代の1237年と戦国時代1580年に兵火で2回、1940年(昭和15年)に火災で伽藍等の焼失と、廃仏毀釈で寺の規模は縮小されていますが、中世から関東屈指の臨済宗の寺だったことを感じられる落ち着いた山の中のお寺です。

茨城県歴史館のホームページに「アメリカに渡った清音寺の仏像と山門」という研究資料の目録が出ています。フィラデルフィア美術館に収蔵されているそうですが詳細は分かりません。しかし現在の山門の奥に、大きな山門の礎石だけが残っています。  

また、浜松市にある臨済宗の名刹、方広寺の本尊の釈迦三尊像は観応3年(1352)の作で国の重要文化財、方広寺のホームページには、「もともと茨城県城里町の清音寺(南禅寺派)の仏殿に祀られていましたが、元禄3年に徳川光圀公参拝の砌(みぎり)、損傷甚だしきを憂い 修復された旨が、光背裏に銘記されています。明治後期に特に懇請して当山の御本尊としてお迎えしました」と出ています。

さて、古来よりこの地は古内茶で知られており、その起源は古く,室町時代初期に栽培が始まったといわれます。江戸時代,水戸光圀公が来山の折、清音寺に産するお茶を献上したところ,味のよさに感嘆し「初音」と命名し、以後 古内地区一帯でお茶が広く栽培されるようになったと伝えられています。 

「初音」の母木は今でも寺の境内に残っていて、この母木から挿し穂約1000本を採り育苗したお茶の木で今年約5キロの収穫があり、その試飲会が6月に行われたとのニュースが出ていました。

幾多の災難や仏像や山門を手放した経緯は分かりませんが、約350年を経てお茶の香りが蘇った明るいニュースでした。
紫陽花が数多く咲いていて、深山に囲まれた境内では一層引き立って見えました。

初夏の公園や道端で…

2020年07月04日 | 季節の花

ミズキンバイ(水金梅)はその名の通り水辺に生育し、五弁の梅のような花はまるで家紋のように端正です。自生地も限られていて絶滅危惧種に指定されているそうです。(逆川緑地)

ミソハギ(禊萩)は味噌萩と思っていました…、お盆の時に萩に似たこの枝を水に浸して禊ぎをしたことが名の由来だそうです。(逆川緑地)

オカトラノオ(丘虎の尾)の名前の由来は一目瞭然ですが、偕楽園の六名木の「虎の尾」は異説が多くいまだに断定できません。(散歩道)

栗の花の根元に可愛い実がチョコンと顔を出しました。約2か月後には立派なイガグリの姿になることでしょう。(散歩道)

ノカンゾウ(野甘草)はニッコウキスゲと似ていますが、上向きに咲きオレンジ色が濃いことで区別できます。(逆川緑地)

朝顔と違い昼間も咲いているのでヒルガオ(昼顔)、根茎で地中を伸びるのでいろんな所に顔を出します。(散歩道)

毎年、芝生の中に顔出すネジバナ(捩花)は、環境のいい花壇の中に移植してやると消滅してしまいます。野原でもそのような状況で生育しているので、芝生の際に移植したら今年は63本も咲いています。

植物のハンゲショウ(半夏生、半化粧)の葉は、開花の時期にだけ表面が白くなって昆虫を呼び寄せ、花が終わるとまた緑色に戻るという、マタタビと同じ自然界の見事な仕組みを見せてくれます。(沢渡川緑地)

一方、暦の半夏生は、夏至の11日後で今年は7月1日、その日にタコを食べる習わしがあり、スーパーのチラシを賑わせていました。

ネムノキ(合歓の木)の花はそれらしく見えませんがマメ科の落葉高木、夕方になると葉が閉じて眠ったようになります。(沢渡川緑地)

合歓の花の仕組みに驚きました。細くて赤い花糸は雄蕊、中央にある花糸が束になっているのが頂生花といい、この株だけに蜜があります。

象潟や雨に西施が合歓花  芭蕉
どの谷も合歓の明りや雨の中  角川源義
合歓咲いてゐて人の世の待時間  今瀬剛一

宇留野城址…佐竹系の連郭式城郭

2020年07月01日 | 歴史散歩

常陸大宮市の市街地が東側の久慈川低地に張り出した比高約25mの台地先端に、佐竹系城郭に多い連郭式平山城の3つの郭が総延長300mの規模で並んでいます。

築城時期などは明らかではありませんが、平安時代中期の天慶年代(938~956)にこの地の宇留野五郎時貞が平貞盛から所領を与えられ築城したともいわれます。

その後佐竹一族の城となり、享禄2年(1529)佐竹氏15代義舜の次男義元が宇留野城主義久の後嗣になりますが、約1.6Km北隣にある佐竹宗家宿老の小貫氏の部垂城を攻め落としてしまいます。(弊ブログ2020.1.7部垂城址)
このため佐竹宗家の兄義篤との12年にわたる部垂の乱が始まりますが、結局天文9年(1540)義元一族は攻め落とされ滅びてしまいます。しかし宇留野氏の一部は義篤側に味方したため、佐竹氏の一族として残存し、慶長7年(1602)佐竹氏の移封では宇留野氏も随従したため廃城となりました。 
                                   
御城と呼ばれるⅠ郭は約25m四方の狭い一画、宇留野氏の氏神である日向神社があり、今でも地元の氏神として崇拝されています。また佐竹氏の秋田移封に随行した宇留野氏が、いつかの復帰を祈願して奉納したと伝わる軍扇2本が残っているそうです。

Ⅰ郭(御城)の北側Ⅱ郭側には高さ約1mの土塁が巡り、幅約5mの空堀が巡っています。

Ⅱ郭とⅢ郭の間には埋まってはいますが、明瞭な薬研堀らしき堀と土塁が見られます。

主郭部分の西側には深さ約20mの浸食谷を挟んで4つの郭があり、平時の居住地として南側に拡げていったと思われます。この南北約500m、東西約100mの広大な一画は開発されて宅地と農地になってはいますが、一部土塁が残っています。

Ⅲ郭より西に伸びた深い大堀は幅20m、長さ300mもあり、ただ構造上途中で工事が止まっているように推定されるのは、宇留野氏滅亡の時期に重なるのではという説もあります。
市街地の城にしては、堀や土塁が残る中世の城址です。しばし空想の世界に遊ぶことができました。