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顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

桜の雨引観音

2017年04月15日 | 季節の花

古来より桜の名所として有名な桜川市の雨引観音は、雨引山、加波山、足尾山などの連山の一画にあり、その位置する山腹の約3,000本の桜が満開の頃には一帯を桜色に染めます。

正式には雨引山楽法寺といい、587年に中国から帰化した法輪独守居士が開山、本尊に延命観世音菩薩(国指定重要文化財)が安置されおり、「一に安産 二に子育よ、三に桜の楽法寺」と昔から桜とともに安産・子育てや厄除け延命にご利益があると親しまれてきました。

仁王門は、1254年宗尊親王の建立した門で、鎌倉時代の仏師康慶の彫刻した阿吽の仁王尊二躯を祠っています。現在の建物は、1628年再建のもので、茨城県指定文化財です。

鐘楼堂は、1254年宗尊親王の御願によって建立し、その後1682年に再建、その後大破したため1830年(文政13年)に再度建立したもので、昭和50年瓦葺きに葺き替えられましたたが、他は文政年中建設当時のものです。

桜に覆われた打込み接ぎの石垣は、まるで古城のような威厳があり、江戸時代には徳川幕府からの厚い庇護を受けてきた格式の高さが感じられます。

見下ろせば南東に広がる旧真壁町は石の生産地として有名で、このお寺の有力なスポンサーが多かったかもしれません。遠くに名峰筑波山が見えます。

水戸城三の丸の桜

2017年04月13日 | 水戸の観光

水戸城は連郭式平山城、南に千波湖、北に那珂川、東には水堀で堅固な構えを備えていましたが、台地の西側は陸続きのため、本丸へは五段の堀を備えて防御の陣としました。その三段目にあたる三の丸の西側の空堀はいま桜の名所になっています。

その一画にある県立図書館入り口のしだれ桜は、茨城県令(第8代県知事)の人見寧が明治15年、初めて茨城県庁が建てられた際に記念に植えた枝垂れ桜で推定樹齢100年以上。彼はもと幕臣で徳川慶喜が上野寛永寺での蟄居謹慎に警護としての任に就きその後、函館戦争にも参加して負傷した強者で、県令のとき陸軍が旧弘道館一帯を練兵場にするという計画を、内務省や陸軍省に掛け合って撤回させこの一帯を現在の姿に守りました。

その近くのお堀の斜面には、蕗の薹の群生が花をいっぱい開かせていました。

旧県庁の裏庭は、桜並木と弘道館公園の梅林です。ゴシック風の庁舎は1930年(昭和5年)に建てられ、水戸の大空襲にも焼け残りました。煉瓦色のタイル張りの建物には桜がよく似合います。

弘道館公園の八卦堂、この堂の中には、9代藩主徳川斉昭が藩校弘道館の開設の精神を述べた弘道館記碑が納められています。碑は常陸太田産の寒水石(大理石)製で、空襲で火災にあい、東日本大震災では一部崩落したものが、文化庁により長期間かけて修復されました。

弘道館の入り口の左近の桜、徳川斉昭の正室、登美宮吉子が輿入れの時、仁孝天皇から賜った京都御所の桜の末裔のヤマザクラで、これは三代目になります。

弾痕の残る正門も桜に覆われています。明治元年の10月1日、藩内抗争の最後の一戦、城を守る改革派と会津から転戦してきて弘道館に陣取った門閥派が、藩士同士で戦い200人近くの血が流れました。桜が眩しく感じられる一画です。

ゆさゆさと 大枝ゆるる 桜かな  村上鬼城
夕桜 城の石崖 裾濃なる  中村草田男

偕楽園の桜

2017年04月09日 | 水戸の観光
今年は梅の開花が早かったのに、桜は平年より遅目です。4月8日現在で左近の桜(ヤマザクラ)はまだ1分咲きにもなっていません。しかもソメイヨシノが満開になっているこの週末が、残念ながら雨模様の天候になっています。

表門の入り口には、右側に「陽」の桜の木、左側には「陰」の椿があり、陰陽の偕楽園を象徴していると言われています。

表門を右に曲がると日向水木(ヒュウガミズキ)の咲き並ぶ道、右側の花梨も芽吹き、左奥にはソメイヨシノの古木も咲き出しました。

東門入り口の二季桜、秋にも咲いて精力を使ってしまっているのに、また春にもしっかと花を付けました。

東門からのメイン通りにある烈公梅の隣に、日本遺産の碑が新しく建てられました。近世日本の教育遺産群というストーリーで、弘道館と一対の学問教育遺産として認定されました。

徳川光圀(義公)、徳川斉昭(烈公)を祀る常磐神社も桜に覆われています。やはり神社には桜が似合います。

境内の義烈館前の広場にも桜の大木、ここは駐車場の関係であまり花見の人出はありません。

千波湖の歩道沿いは、柳の芽吹きと桜の競艶、小雨まじりの桜川に映る様子は水府と呼ばれる水戸の情緒を醸し出しています。

桜川上流部に光圀公ゆかりの山桜を植える活動をしている、「桜川千本桜プロジェクト」によると、偕楽園内には130本の桜、その他に千波湖の外周および少年の森広場に約750本、その品種は30種もあり、さらに桜川の駅南部(駅南小橋~美登里橋)には250本が植えられており、こちらはソメイヨシノ中心、これに桜山の370本を加えると、桜川下流部にはすでに1500本の桜があるということです。
このプロジェクトは桜梅一対という歴史的な景観構成にも注目しておりますので、梅だけでなく、桜の名所としても偕楽園一帯が充実して、より魅力的な街になることを期待しています。

六地蔵寺の桜と大日本史編纂2学者の墓所

2017年04月06日 | 季節の花

水戸市六反田にある倶胝密山 聖寶院 六地蔵寺は創建大同2年(807年)ごろといわれる真言宗の古刹で、水戸藩第2代藩主徳川光圀公ゆかりの寺です。ここの樹齢200年の見事な枝垂れ桜は、光圀公が鑑賞した桜の子孫といわれており、その他にも約30本の桜が境内を彩っています。



弘法大師も桜に囲まれて、「願わくば…」と桜の時期に逝った西行法師とイメージが重なります。

立原翠軒(1744~1823)とその一族の墓。水戸藩彰考館総裁として「大日本史」の編纂につとめ,藤田幽谷ら多くの門人を育成した儒学者。翠軒の墓は、妻の塩(鶴見氏)の墓所、海蔵寺(文京区向丘)にあり、南画家である子の杏所や杏所の娘、春沙なども同寺に 埋葬され、代々同寺を菩提寺としていますが、平成6年に翠軒の祖父・達朝や父の蘭渓、幕末の志士の孫・朴二郎らの眠るこの六地蔵寺にも埋葬されました。
なお子孫に詩人立原道造がいます。
「立原翠軒 居士之墓」と清冽な篆書体で書かれた墓銘碑を枝垂れ桜が覆っています。

栗田寛(1835~1899)、勤などの墓所は奥まった一段高い場所にあります。藤田東湖や会沢正志斎に学び、彰考館総裁豊田天功に認められ編纂事業にあたり、家塾「輔仁学舎」を開き菊池謙二郎などの後進の養成に力を注ぎ、維新後、東京帝国大学の教授となった後も大日本史の志、表の編著の継続と完成に尽力し、明治31年(1899)に没した後は、養子の勤(いそし)達に受け継がれ、明治39年(1906)光圀公以来250年に及ぶ大日本史(本紀・列伝・志・表の397巻と目録5巻の計402巻)の大事業を完成させました。
なお、レイテ沖海戦で謎の反転をした孫の栗田健男中将の墓は東京の多磨霊園にあります。


地に情を降らせししだれ桜かな  能村研三
幹に寄るしだれざくらの扉をひらき  鷹羽狩行

那珂川の菜の花摘み

2017年04月04日 | 季節の花

この近辺では那珂川、久慈川とその支流の緒川、山田川、里川など、ほとんどの河川敷に菜の花の群落が見られます。
菜の花は、アブラナ科アブラナ属の花の総称ですが、細かく言えばアブラナまたはセイヨウアブラナのことをいいます。自然に繁殖したものがほとんどですが、行政が協力して栽培し、菜種を収穫して食用油を精製、利用する事業を始めているところもあるようです。

年によって生育状況が変わるため、吾が近所の涸沼川に流入する支流では葦が繁茂し、菜の花、からし菜とも以前の土手を覆うほどの勢いがなく、ここ那珂川まで出向くことになりました。ここも以前のような「辺り一面」というような状況ではありませんが、充分の収穫ができ、早速の辛子和えを翌日、少し早めの花見の宴で披露できました。

なお、菜種梅雨という季語は、春雨前線が停滞する頃の雨の多い時期、菜の花が咲く3月半ばから4月前半にかけてのぐずついた天気をいいます。

菜の花の遙かに黄なり筑後川  夏目漱石
こぼれ菜の花むらがりの島の墓  上村占魚