顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

六地蔵寺の桜と大日本史編纂2学者の墓所

2017年04月06日 | 季節の花

水戸市六反田にある倶胝密山 聖寶院 六地蔵寺は創建大同2年(807年)ごろといわれる真言宗の古刹で、水戸藩第2代藩主徳川光圀公ゆかりの寺です。ここの樹齢200年の見事な枝垂れ桜は、光圀公が鑑賞した桜の子孫といわれており、その他にも約30本の桜が境内を彩っています。



弘法大師も桜に囲まれて、「願わくば…」と桜の時期に逝った西行法師とイメージが重なります。

立原翠軒(1744~1823)とその一族の墓。水戸藩彰考館総裁として「大日本史」の編纂につとめ,藤田幽谷ら多くの門人を育成した儒学者。翠軒の墓は、妻の塩(鶴見氏)の墓所、海蔵寺(文京区向丘)にあり、南画家である子の杏所や杏所の娘、春沙なども同寺に 埋葬され、代々同寺を菩提寺としていますが、平成6年に翠軒の祖父・達朝や父の蘭渓、幕末の志士の孫・朴二郎らの眠るこの六地蔵寺にも埋葬されました。
なお子孫に詩人立原道造がいます。
「立原翠軒 居士之墓」と清冽な篆書体で書かれた墓銘碑を枝垂れ桜が覆っています。

栗田寛(1835~1899)、勤などの墓所は奥まった一段高い場所にあります。藤田東湖や会沢正志斎に学び、彰考館総裁豊田天功に認められ編纂事業にあたり、家塾「輔仁学舎」を開き菊池謙二郎などの後進の養成に力を注ぎ、維新後、東京帝国大学の教授となった後も大日本史の志、表の編著の継続と完成に尽力し、明治31年(1899)に没した後は、養子の勤(いそし)達に受け継がれ、明治39年(1906)光圀公以来250年に及ぶ大日本史(本紀・列伝・志・表の397巻と目録5巻の計402巻)の大事業を完成させました。
なお、レイテ沖海戦で謎の反転をした孫の栗田健男中将の墓は東京の多磨霊園にあります。


地に情を降らせししだれ桜かな  能村研三
幹に寄るしだれざくらの扉をひらき  鷹羽狩行