
水戸城は連郭式平山城、南に千波湖、北に那珂川、東には水堀で堅固な構えを備えていましたが、台地の西側は陸続きのため、本丸へは五段の堀を備えて防御の陣としました。その三段目にあたる三の丸の西側の空堀はいま桜の名所になっています。

その一画にある県立図書館入り口のしだれ桜は、茨城県令(第8代県知事)の人見寧が明治15年、初めて茨城県庁が建てられた際に記念に植えた枝垂れ桜で推定樹齢100年以上。彼はもと幕臣で徳川慶喜が上野寛永寺での蟄居謹慎に警護としての任に就きその後、函館戦争にも参加して負傷した強者で、県令のとき陸軍が旧弘道館一帯を練兵場にするという計画を、内務省や陸軍省に掛け合って撤回させこの一帯を現在の姿に守りました。

その近くのお堀の斜面には、蕗の薹の群生が花をいっぱい開かせていました。

旧県庁の裏庭は、桜並木と弘道館公園の梅林です。ゴシック風の庁舎は1930年(昭和5年)に建てられ、水戸の大空襲にも焼け残りました。煉瓦色のタイル張りの建物には桜がよく似合います。

弘道館公園の八卦堂、この堂の中には、9代藩主徳川斉昭が藩校弘道館の開設の精神を述べた弘道館記碑が納められています。碑は常陸太田産の寒水石(大理石)製で、空襲で火災にあい、東日本大震災では一部崩落したものが、文化庁により長期間かけて修復されました。

弘道館の入り口の左近の桜、徳川斉昭の正室、登美宮吉子が輿入れの時、仁孝天皇から賜った京都御所の桜の末裔のヤマザクラで、これは三代目になります。

弾痕の残る正門も桜に覆われています。明治元年の10月1日、藩内抗争の最後の一戦、城を守る改革派と会津から転戦してきて弘道館に陣取った門閥派が、藩士同士で戦い200人近くの血が流れました。桜が眩しく感じられる一画です。
ゆさゆさと 大枝ゆるる 桜かな 村上鬼城
夕桜 城の石崖 裾濃なる 中村草田男