顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

鎌倉初期築城の志筑城址 (かすみがうら市)

2018年08月13日 | 歴史散歩

志筑城阯は、三方が深田に囲まれ、南側に自然の掘割を擁した天然の要害です。
鎌倉時代茨城南部の地頭職であった下河辺政義の築城によるもので、子孫代々城主をつとめましたが、南北朝争乱では六代城主国行は小田城主治久と共に南朝方に属し府中城の大掾高幹と戦いをくり返し、ついに興国2年(1341)に小田城とともに敵の軍門に下り、廃城となりました。

現地の解説板によると、
「鎌倉時代源頼朝の家臣下河辺政義(後に益戸氏)が、養和元年(1181)頼朝に叛いた浮島の信太義広を討ち、その功により茨城南部の地頭となり、この地に城を築いたのに始まる」と書かれています。

その後、慶長7年(1602)佐竹氏の国替えに伴い、出羽国(秋田県千畑町)より8500石で本堂茂親が入封してここに陣屋を構え、廃藩置県まで本堂氏十二代の居城となりました。10代親久は明治維新で新政府にいち早く忠誠を誓ったため、10110石に加増され立藩し、短い期間ですが大名に昇格しました。
御殿跡の大きな楠木の下に、城址の石碑が建っています。

陣屋が廃された後、門などの建築物の払い下げられたものが、近くの県道沿いの街並みにも見られ、志筑陣屋の城下町の雰囲気を残しています。

なお、志筑藩士では幕末に活躍した新撰組隊士でのちの御陵衛士伊東甲子太郎、鈴木三樹三郎の兄弟が知られていますが、写真の屋敷門の家は兄弟の母の実家という情報もあります。
もと志筑小学校敷地跡の東西約160m、南北最大約80mが城址ですが、遺構はほとんど失われています。西北側には高さ1mほどの土塁が残り、見下ろすと急峻な台地の上にあるのが実感できます。

城跡に栃の実がたくさん落ちていました。昔から食用とされていましたが、強いアクを抜く作業が大変なので今はとち餅などにしか使われないようです。近縁種でヨーロッパ産のセイヨウトチノキが、フランス語名「マロニエ」としてよく知られています。

2郭の南側にあり堀の役目をしたと思われる八幡池です。この他に南東の県道沿いにも堀跡と思われる池が残っています。

八幡池の南隣にある藩主本堂家の菩提寺、鳳林山瑞雲院長興寺。当地へ移封となった際、出羽国新庄より移したと伝わっている曹洞宗の古刹で、山門と本堂は市指定文化財になっています。

歴代の本堂氏の墓所です。藩主の本堂氏はほとんど江戸で過ごし、陣屋では家老などが政務を執っていたそうです。

五百羅漢の寺としても有名で、石岡市在住の彫刻家、鶴見修作氏が1986年より製作を始め、今は「羅漢を彫る会」が製作を続けおり、境内で500は越えると思われるユニークな表情の羅漢と出会えます。
山門近くの羅漢像2体には、耳と鼻に蝉の抜け殻が付いていて、くすぐったいような表情が印象に残りました。

森閑とこの空蝉の蝉いづこ  福永耕二
空蝉にかき附かれたる寂しさよ  永田耕衣
石仏の鼻に空蝉すがりけり  顎髭仙人


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