顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

嶋崎城(潮来市)…戦国期城郭の遺構がしっかり残っています!

2019年12月25日 | 歴史散歩
平国香の子孫、常陸平氏大掾庶流の行方氏の祖、行方宗幹の次男高幹が鎌倉初期に嶋崎に分封されて嶋崎氏を称したのが始まりとされます。その子孫が小高、麻生、玉造に分封されてこの4家はこの地方の最大勢力となり行方四頭と称されました。しかし戦国末期には嶋崎氏が他氏を制圧し4万5千石を領して、鹿島・行方両郡に割拠する国人領主(南方三十三館)で筆頭の地位を得るまでになりました。やがて勢力を伸ばしてきた佐竹氏に臣従するようになり、1590年の小田原の役では佐竹氏に従い参戦し、秀吉に拝謁し「大太刀一振り」「馬一頭」を献上しています。
にもかかわらず、秀吉から常陸一国を佐竹氏が所領安堵されると、翌1591年に佐竹義宣は、鹿島・玉造・行方・手賀・島崎・烟田氏等を新しい知行割をするという名目で居城の常陸太田城に招き、参集した島崎城主義幹父子ら16名を酒宴中に惨殺し、直ちに佐竹氏は軍勢を鹿行地域に進撃し、城主不在となった城をすべて攻め落としたという、いわゆる「南方三十三館の仕置」が行われました。島崎城も佐竹氏の軍勢に攻められ、城主なき城は間もなく落城したといわれます。
佐竹氏にとっては、農耕に適した温暖で潮来など近隣の津(港)を掌握する豊かなこの地は魅力的で、すぐに領地支配の堀之内大台城を築きますが、12年後には秋田転封に伴い棄却され、この一帯は水戸藩領となりました。
江戸時代の水戸藩はここに陣屋を置かず、地域の行政を任せた「八人頭の庄屋」の家系は、この島崎家の重臣達の子孫でした。
応永年間(1394~1428)に築城されたとされる連郭式平山城は、比高約15m(海抜45m)の舌状台地が南に張り出した要害の地にあります。
大手口には城址の石碑が建っていて手前には水堀跡の案内板がありました。
登っていくと左手には、階段状に腰曲輪、帯曲輪が並びます。
大手門付近では正面に2曲輪の切岸が立ちはだかります。

右に直角に曲がると水の手曲輪があります。奥に見える右手が西2曲輪、左が1曲輪(本丸)で、右手奥に大井戸が残っています。
2曲輪から西側に遠く霞ケ浦方面が望めます。曲輪の高さと急峻な崖に堅固な城の守りを実感できました。
本丸にあたる1曲輪には札神社が建っています。13代嶋崎長国が鹿島神宮の御札を
身に着けて戦ったら無傷で勝利したので、その御札を祀ったといわれています。
曲輪間には深い空堀が切られ、曲輪の周りには土塁が廻されています。
2曲輪の北側には深さ15mもある二重堀があり、先端には八幡台という案内板がありました。
最大規模の3曲輪と2曲輪間の堀底道の両岸は深い切岸が続きます。
遺構がしっかりと残る数少ない中世の城跡で、当時を偲びながら巡っていると、近所の人に呼び止められて、資料4枚の入ったファイルいただきました。その方もメンバーの城跡を守る会が草刈りや案内板の整備をしており、駐車場もいま工事中とのことでした。
嶋崎城から約1.5km北西にある二本松寺は天長年間(824)の開山で、潮来市茂木地区にありましたが、初代嶋崎高幹が鬼門除けとするため現在地に移転し祈願寺とし、出城として境内も城郭化したとされます。
この天台宗羽黒山覚城院二本松寺は、嶋崎氏滅亡後も佐竹氏、水戸徳川氏の崇敬を受け、水戸光圀公が訪れたとき、「二本松寺の紅梅を咲けるを」と題して詠んだ「ふたもとの 松のみとりの 色映えて 紅にほふ 軒のむめが香」の歌碑が二本松の根元に建っています。

嶋崎城跡を守る会の皆さんの整備のおかげで中世の城郭を充分に楽しむことができました。感謝とともに今後の活動にエールをおくりたいと思います。

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