顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

弘道館北柵御門の復元

2019年12月20日 | 水戸の観光
江戸時代末期、9代水戸藩主徳川斉昭公が水戸城三の丸に建設した藩校弘道館は日本最大規模を誇り、医学館、天文台を持つ総合大学でした。幕末の藩内抗争と水戸大空襲により殆どが消失しましたが、弘道館正庁、至善堂、正門など施設の一部が現存し、国の特別史跡に指定されています。

さて、弘道館の当時の面積は105,000㎡(32,000坪)あり、その敷地北側にあった北柵御門と土塁、通路の一部がこのほど復元整備されました。
弘道館教授であった津田信存の「弘道館雑志」には、「南北二門ハ教職吏員ヲ除クノ外 出入ヲ得ズ」とあり、南北2つの柵門には番所が置かれて教員、役人以外の通行を厳しく取り締まり、学生は正門右手の通用門からだけ出入りしたそうです。



弘道館全図や残っている絵図などの資料と発掘調査をもとに専門部会を重ねて工事を実施した新しい北柵門、当時の重厚な藩校のイメージが浮かび上がります。
もとは12の重臣屋敷があった水戸城三の丸は、大手門の正面に位置した重要な位置なので、北柵門の入り口も、城郭特有の食違い土塁という構造になっています。

門は柱脚を地中に埋め込む掘立式で、柱をつなぐ貫が上下2本ある釘貫門という構造であると当時の絵図から推測されました。なお本柱は地中に1.3m埋め込み、下部は太くなっていますが、桧の一本木で、両脇の石積みは長崎の諫早石を使用しているということです。

土塁の高さについては資料で確認されないので、現在残る土塁の高さ約2mでの段階的整備です。(写真は北柵門に繋がる土塁と堀です。)

発掘調査で分かった当時の通路の幅は1.5m、土敷き、石敷きの特定ができなかったので、段階的整備として柔らかい材質の素材を敷いたということです。

まだまだ馴染んではいませんが、やがて背景にある1930年建設の茨城県庁旧庁舎の煉瓦色と合うようになることでしょう。

文武両道を建学精神に掲げた弘道館には学問の神様を祀る孔子廟、武道の武甕槌命を祀る鹿島神社がありますが、その前の生け垣にお茶の花が一輪咲いていました。

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