霞ケ浦右岸にあったという水戸藩の流刑地に関した伝承の地へ3月末に行って来ました。
霞ケ浦の上流の細くなった入り江の両岸、左岸の小川町と玉里村(現在の小美玉市)と右岸の石岡市井関、石川地区は水戸藩の領地で、両岸の距離が短く(700mくらい)挟まれた区域を御留川と称し水戸藩固有の漁場として管理していました。
その右岸で現在は陸地の八木地区は、当時は陸地から離れた宍倉島になっていて、水戸藩では政治犯を収容する流刑地としていました。
国土地理院地図に海抜5mの等高線を緑色で引いてみると、宍倉島のイメージが浮かび上がります。周りの整然とした田も干拓された歴史を感じさせます。
水戸から縄で縛られ唐丸籠で運ばれた罪人は、旧玉里村の大井戸の地蔵の所で籠から降ろされて、縄で後ろ手に縛られたまま舟に乗せられ、対岸の宍倉島に送られ岸辺の地蔵堂の前でやっと縄を解かれました。いつの頃からかこの大井戸の地蔵は「籠抜け地蔵」、宍倉島八木の地蔵堂は「縄とき地蔵」と呼ばれて後世に伝わってきました。
籠から降ろされた場所にある「籠抜け地蔵」、近くに今でも御蔵船溜がある県道194号線宍倉玉里線の道路沿いに数体のお地蔵さんが置かれています。ここのバス停は「稗倉(ひえくら)」という名で、水戸藩2代藩主徳川光圀公が水害にたびたび襲われた農民に救荒作物として稗を奨励し、その稗と貯穀倉庫が4棟ここにありました。稗倉の前にある大榎の下に置かれていたお地蔵さんですが、木が伐採されたのでまとめて現在の囲いの中に入れたそうです。
凶悪犯ではない政治犯なので住民たちも同情して迎えたのかもしれません。風化して歴史の古そうなお地蔵さんは、地元の方が毛糸の帽子などを被せてありました。
関東平野を見下ろす日本百名山筑波山(877m)、ここから見る筑波山は、「高浜筑波」とよばれ、その双耳峰がいちばん尖って見える角度になります。訪れた時は桃の花が満開でした。
さて対岸の流刑地であった八木地区は、西側から見るとまさしく当時は島であったような地形です。
住吉神社がある海抜200mくらいの台地が島の中心部です。ここへ収容された政治犯の囚人たちは、陸から少し(400mくらい)しか離れてなくても脱走するものもなく、作業小屋で監視のもとに作業をしたと伝わっています。
「縄とき地蔵」は山王峰という台地の中腹にありました。地蔵堂の前にも石仏などがまとめて置かれています。.
地蔵堂の中にある素朴で、柔和なお顔のお地蔵さんです。この「縄とき地蔵」は、いつの頃からか地元の人たちの安産を願う「子授け地蔵」として崇敬されてきました。
地蔵堂の裏手の崖にヤブ椿が咲いていました。
ここ「縄とき地蔵」から対岸の「籠ぬけ地蔵」方面を見ると、前方の田んぼが当時は湖面だったことが推測できます。
この辺はどこからでも筑波山が鋭い双耳峰を見せていて、さすが関東の名峰です。
この島に収容された囚人は、藩の方針に従わなかった政治犯ということです。幕末に藩内抗争が激しかった水戸藩ですが、残念ながらその詳細は分かりません。
ところで、「籠ぬけ地蔵」の北側150mくらいの道路沿いの竹林前に石仏群がありました。
「竹林の石仏群」とよばれているらしいのですが、詳しい情報は見つかりません。
多分、近辺の道端などに置かれていたものを、まとめてものと思われます。
宝暦12年(1762)と刻まれた頬杖の如意輪観音像、居眠りしているかのような穏やかな顔です。江戸時代には女性の信仰の対象として多く作られたといわれます。
右側は乳飲み子を抱いた慈母観音でしょうか。
こちらは地蔵菩薩の座像でしょうか。
現存する国内の石仏の約80%は江戸時代に造られたといわれます。神仏習合の世の中でいろんな信仰対象に素朴な信仰心を抱いた一般庶民も制作に関係するようになり多様な石仏が彫られました。
風化しにくい石仏ですが、残念ながら当時の話を語ってはくれませんでした。
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