顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

小菅郷校跡…水戸藩15郷校のひとつ

2023年04月17日 | 歴史散歩
幕末の教育史上特異な存在といわれる水戸藩の郷校は、文化元年(1804)茨城郡小川村に創建された稽医館が最初で、その後合わせて15校が領内各地に設立されました。
藩士子弟の通う藩校弘道館に対し、地方の庶民教育のために設置され、当初は医者の養成を目的としたり、儒学などの学びの場でしたが、対外の危機が迫る安政時代になると武術の訓練を主とするようになり、幕末の藩内抗争時にはほとんどが尊王攘夷派の拠点となりました。

今回訪問した小菅郷校は茨城県北部の山間部にありますが、藩政改革の一環として疲弊した農村の振興、農民教化のための郷校を「郡邑便宜の地を択み学を建つ」とされた地域に当時は該当していたのでしょうか。

散りかけた山桜の奥の杉林の中に小菅郷校があります。

里川を渡った先の突き当りの崖上に郷校の案内版がありました。


さて、明治維新の10年前の安政4年(1857)3月25日に開館した小菅郷校は、1566坪の敷地に本館を建て、館外には884坪の練兵場と幅3間、長さ100間の射撃場、幅6間、長さ30間の矢場を設けました。本館の中は、上段の間(8帖)、二の間(8帖)、三の間(6帖)、玄関(4帖)、勝手(11帖)、式場(広さ不明)に別れていました。
当時この地方の人々は、御館(おかん)とか文武館と呼んでいたそうです。

瀬谷義彦先生の「水戸藩の郷校」研究論文には、代々庄屋など村役人を勤め山横目から郷士に取り立てられ尊攘運動に奔走した椎名次郎部佐衛門が郷校掛りになり、隣村の郷士斎藤善衛門、中野次郎佐衛門も同じく郷校掛り、近在の郷士中野林平、佐川八郎ほか2名が世話掛かりになったと書かれています。彼らが郷校建設資金や維持費の献納をしたという資料も残っており、藩が近在の有志に割り当てていた資金の調達能力も郷校建設地の選定に寄与したのかもしれません。

しかし元治元年(1864)の天狗党の挙兵による藩内の抗争が激化すると、小菅郷校もその機能を失い、この地の天狗派の事実上の軍事拠点となったため、実権を握った諸生派により焼き討ちにあい焼失してしました。明治4年(1871)に再建されましたが、翌年の学制発布と同時に閉校となりました。

閉校になった郷校はほとんど学校敷地に利用されるなどして、ほぼ完全な形で残っているのはここだけで、唯一茨城県指定史跡に指定されています。しかし、遺構は土塁と堀だけで、山麓の段丘を利用した城郭のような立地に築かれた郷校跡は杉林の中に埋没していました。
「小杉郷校跡です」という案内看板も手作り感にあふれていて、つい微笑んでしまいます。


近所の人に道を尋ねたら「何にもねえよ」と笑って教えてくれましたが全くその通りでした。薄暗いスギ林の中に土塁で囲まれた40~50mくらいの方形の窪地は本館跡で、その南西側が練兵場のようです。


土塁と土塁に挟まれた幅7mくらいで長さ数10mの平坦地は、矢場か射撃の練習場と思われます。


崖下に咲いていたヤマブキ(山吹)の花、右側の白い花は葉がモミジに似ているので命名されたモミジイチゴ(紅葉苺)で、6月になると黄色のみずみずしい木苺が生ります。


山里の風景がいちばん輝く新緑の季節…、新しい時代の息吹を感じながら文武を学ぶもその奔流に流された、この地の先人たちを思い浮かべたひとときでした。

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