創建は大同2年(807)、大蔵坊宝珠上人が阿波国から天日鷲命(あめのひわしのみこと、紡績業・製紙業の神)を勧請し、紙すきなどの製紙技術も伝えたといわれます。 その後鷲子山周辺が和紙の一大産地になり、関係者の厚い信奉により神社も栄えてきました。またその時代の支配者の崇敬も集め、建久8年(1197)には源頼朝が、 天正15年(1587)には佐竹義胤、慶安元年(1648)には徳川家光が寄進した記録が残っているそうです。
この神社が有名なのは、茨城、栃木の両県にまたがり、県境が大鳥居や随身門の中央、そして直角に曲がり本殿の中央を通るという全国でも珍しい立地だからです。
左に栃木県の社務所、右に茨城県の社務所がありますが、運営管理は栃木県側の神職長倉家が執り行っているということです。
常陸国風土記に「下野国との境の大山」と書かれており、1000年以上前から国境でしたが、中世では一帯が佐竹氏の領地、近世では水戸徳川家の藩領になっていました。しかし明治の廃藩置県で県境が神社の中央を通ることになり、その時に恨みっこなしで真ん中に線を引いたと思われます。
国土地理院の地形図でも、県境の線記号が不自然な曲がり方をしているのがわかります。
入母屋造で銅板葺の随身門は、文化12年(1815)再建という三間一戸の楼門で、正面両脇には随神像、背面両脇には仁王像が安置され、神仏習合の跡が残っています。
隋神の左大臣、右大臣像は、享保6年(1721)、江戸の大仏師、原田右京の作と伝わります。3回の大修理が行われており、建立当時の彩色が蘇りました。
隋神門の真ん中にも左右に分かれる県境のプレートがあります。
随身門の背面にある仁王像も同じ享保6年に原田右京の作、門の正面に安置されていましたが、明治の神仏分離で撤去されそうになるといろんな異常が起こったため、楼門の背面に板で隠して据え廃仏毀釈が過ぎるまで待ったといわれます。
隋神門と拝殿の間の急な階段にも楼門があります。
拝殿の扁額「鷲子山上神社」は、水戸徳川家12代徳川篤敬の次男で一橋家12代、伊勢神宮大宮司も務めた徳川宗敬の書です。
本殿を前後に分けて中央に県境が通っています。現在の本宮の地にあった本殿を天文2年(1552)にこの山上に建立したとの記録が残りますが、現在の本殿は天明8年(1788)の再建です。
本殿に施された木鼻などの彫刻は、日光東照宮造営の流れをくむ宮大工によるものとされます。
鬱蒼とした杉の大木の中で、本殿脇にある千年杉は樹高32m、目通り6.8mです。
鷲子神社は、古い時代よりフクロウが神の御使い・幸福を呼ぶ神鳥として崇敬されています。境内にはフクロウがいっぱいで、地上7mの日本一の大フクロウもあり、別名「フクロウ神社」とも呼ばれています。
栃木県側社務所の裏にある伍智院は、別当寺だった頃の寺院の跡です。南北朝時代の明徳3年(1392)、佐竹一族で長倉城主の長倉興義が出家して鷲子山別当になり、以後も修験宗本山派寺院として伍智院が別当職を務め、明治維新により神官になりました。
光圀公が藩領視察の折立ち寄ったという「黄門様ご休憩の間」があります。(拝観は要予約)
秋海棠が満開でした。