顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

大煙突と日鉱記念館 (日立市)

2018年02月09日 | 歴史散歩

工業都市・日立市のみならず、日本の近代鉱工業の原点でもあった日立鉱山は、当時世界一とされた大煙突で知られていました。その歴史を展示した日鉱記念館は、鉱山発祥の地に昭和60年(1985)建てられました。

この鉱山の煙害を克服した大煙突建設を巡る実話を描いた新田次郎の小説、「ある町の高い煙突」の映画化が決まり、いま現地では話題になっているようです。(下記写真は映画化ホームページより)

100年前、ここに命をかけて環境破壊と戦い、愛と誇りを守った人たちがいた、これは今日のCSR(企業の社会的責任)の原点である…と映画化のホームページには書かれています。(下記写真は記念館の展示から)

前身の赤沢銅山でも江戸時代には鉱毒水の被害による稲作の減収や被害田の年貢の軽減があったようですが、明治38年(1905)久原房之助が近代的銅山に取り組んで増産を始めると、銅製錬によって発生する亜硫酸ガスが周辺の山々や農作物を枯らし始めました。(記念館展示写真を見ると、大正の始め、大煙突建設前の鉱山の周りは禿山ばかりです。)

この煙害について、科学的知見も防止技術も未成熟だった時代に、日立鉱山の久原房之助社長と担当の角弥太郎、地元入四間の関右馬充と住民たちは互いに誠意をもって激化する煙害問題の解決に取り組みました。(久原の慶応義塾の卒業証書が展示されていました)

まず煙害は大正4年(1915)年、当時世界一の高さ155.75mの大煙突を建てることによって大幅に軽減され、また何年にもわたり煙害に強いオオシマザクラやヤシャブシなどの植林により自然環境も少しずつ回復されました。(写真は記念館展示写真)   
しかし、平成5年(1993)この大煙突は三分の一を残し倒壊してしまいました。

また日立鉱山で使用する機械の修理製造部門を率いていた小平浪平が独立して、明治43年(1910)久原鉱業日立製作所が誕生、これが現在の日立製作所の始まりです。(最初の工場となった芝内製作所、記念館展示写真)

やがて大正15年(1926)年、久原の後を受けた義兄の鮎川義介は事業の多角化を進め、社名も日本産業と改称し、いわゆる日産コンチェルンを形成し、昭和10年代には三井三菱と肩を並べるまでになりました。

現在の煙突をかみね公園から撮りました。高さは往年の三分の一の54m、まだ現役で煙を吐いています。
戦後の技術革新により亜硫酸ガスはほぼ100%除去できるようになりましたが、昭和51年(1976)から製錬をやめ、昭和56年(1981)には閉山。現在では粗銅を電気銅とする電練工場中心の操業だけになっています。

鉱山一帯を流れる宮田川流域の水田にも鉱毒の被害をもたらしましたが、鉱山側が補償と高額買収を行い、これが工場や住宅地、学校などとなり、現在の市街地を形作りました。宮田川は海までは約8キロ、しかも急流であったので、鉱害が広範囲に広がらなかったのかもしれません。

その宮田川のたもとにある共楽館は、今は日立市武道館となっていますが、大正6年(1917)大煙突2年後の建設で、鉱山従業員の慰安の演芸場でした。
仙人が高校生の頃は映画館で、よく授業サボって西部劇の二本立てを母の作った弁当を食べながら観た、悔悟の思い出の場所になっています。

日立鉱山の公害問題の特徴は、行政の介入なしでも鉱山側と住民側と補償の丁寧な話し合いを行い、平和的な解決が図られたこと、これは江戸時代から地域住民が補償による鉱害問題解決を行ってきた歴史と、鉱山側の久原房之助の「一山一家」という鉱山全体と地域を含めて共同体と見る思想、そして住民側の関右馬充の鉱山と地域は共存共栄という思想があったからだいわれています。
いずれにしても、100年以上前の公害問題解決の一例として歴史に残っていくことと思います。