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顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

宝篋印塔の主は大草松平氏

2017年08月10日 | 歴史散歩
以前このブログで紹介した水戸市大串町の廃寺跡にある高さ3.2mの宝篋印塔は、水戸市のホームページで水戸藩次席家老松平壱岐守正朝の墓碑塔と出ていますが、調べてみると戦国時代から江戸時代初期にかけて、波乱万丈の一族の末裔の墓でした。

松平正朝の祖は三河国額田郡大草郷(現在の愛知県額田郡幸田町)出身で大草松平家と言われ十四松平・十八松平の一つ、一時は岡崎城を領し岡崎松平家とも言われました。
後の徳川家康の宗家に対抗的で、3代・松平昌安は松平清康(徳川家康の祖父)に謀反して敗れ、4代・松平昌久は三河一向一揆で一揆側に付き一時追放されましたが、再び一門に復し、7代・松平康安の時、徳川家康のもとで嫡子松平信康に仕え、鉄砲射撃を得意とし、足軽大将として武田・北条戦で活躍しました。

8代松平正朝は家康、秀忠より六千石を給与され、関ヶ原、大阪の陣にも従軍し後に駿河大納言・徳川忠長付きとなりましたが忠長の改易・除封に連座して所領を没収されました。
その後赦されて寛永12年(1635)水戸徳川家に出仕、頼房の元で6千石を賜り水戸藩次席家老として、中山氏の次座、山野辺氏の上座という高い格式に列しましたが、子の9代正永には跡継ぎがなく大草松平家は絶えてしまいました。
(同時期に正朝の弟、松平志摩守重成も3000石(後に5000石)で水戸藩に出仕、山野辺氏の次座家老に列しましたが、同じく3代で無嗣絶家になりました。)

碑文には寛永21年(1644)建立とありますので、松平正朝はわずか10年弱の水戸での晩年でした。

三河松平家の勇猛な一族も、浮き沈みを重ねて遠く常陸の国で絶え果て、廃寺の片隅に訪れる人もなくひっそりと…まさに「兵どもの夢のあと」です。
なお、この善徳寺は開基天文3年(1534)の浄土宗寺院で、城下藤沢小路より移寺し24石余、檀那なし、後に移寺と常澄村史に出ています。