地遊人

日常のことごと、出来事を、気ままに書き記していく。
62歳からの自己整理・自己満足策とボケ防止挑戦プログ。

中山道六拾九次を歩く【7】高崎宿~安中宿

2009年04月14日 |   中山道四人旅
高崎宿から板鼻宿を通り安中宿へ

【三代将軍家光の弟(秀忠の三男)忠長の墓(大信寺内)】 
高崎城に幽閉・自刃、享年29歳。将軍継承問題・・・二代将軍秀忠の忠長偏愛を、家光の乳母・春日局が家康に直訴。家康は元和元年(1615)、家光を将軍の後継者に決定、翌年没した。その後、忠長はで非行があったという名目など、家光に疎んじられ・・・信寺内には、幼稚園が併設され、忠長の墓の周りは、無縁仏の墓か、多数の墓石が集積され・・・嫌だねー






【諏訪神社】 
土蔵造りの小さな神社、建物は龍の絡まる鳥居が張り付けてある。信州諏訪より48の宝石を勘請した沼田城主真田氏が箕輪に祀うった2の宝石のうち1つが祀られている。彫刻がすごい。物語風の彫刻も。






【高崎城跡・櫓・東門】







【長松寺】 
写真中:天女絵(玄関天井なので結構傷んでいる)、下:本堂の龍このお寺の、若い多分住職だと思うが、丁寧に忠長自刃の部屋を見せてくれたり、本堂の龍(天井絵)、天女(天井絵)などお寺の歴史を含め説明してくれた。(天井絵:狩野探雲作ー江戸時代)。こういう住職にはしっかりした檀家がついて行くだろうなと思った。
  







【小林山達磨寺】(開山は心越禅師)
達磨寺縁起:昔、碓井川のほとりに観音様のお堂がありました。ある年、大洪水のあと川の中に光るものがあるので、里人が不審に思ってみますと香気のある古木でした。これを霊木としてお堂にお納めて置きますと、延宝八年(1680)一了居士という行者が信心を凝らして一刀三礼、この霊木で達磨大師の座禅像を彫刻してお堂にお祀りしました。まもなく、達磨大師の霊地少林山として知られると、元禄十年(1697)領主酒井雅楽頭は、この地に水戸光圀公の帰依された中国の帰化僧心越禅師を開山と仰ぎ、弟子の天湫和尚を水戸から請じ、少林山達磨寺(曹洞宗)を開創しました。
享保十一年(1726)水戸家は、三葉葵の紋と丸に水の微章を賜い永世の祈願所とされました。のち、隠元禅師を中興開山に仰ぎ、黄檗宗に改め以来法灯連綿として今日に至っております。


遠くに妙義山が見えてきた。あの山の向こうは、信濃の国だ。


【皇女和宮資料館(木島本陣の書院】 
板鼻公民館が管理しているというので、お願いすると、女子事務員が別棟の資料館のカギを開けてくれたはいいが、目も合わせず、一言もなしで公民館に帰ってしまった。なに?で皆でブーイング。そんなことと資料館の中は薄暗く見難いし、系列だっていないしで10分位で出てしまった。ったくーだ。何か巻物が埃だらけの棚の上に2,3乗っていた。
皇女和宮がこの板鼻宿に泊まった時の貴重な体験、資料があるのになー。今回の旅で一番期待していただけに残念。この市には人材が居ないのか。怒。
改善委員会には、長松寺の和尚さんを入れるべきだ。本当に。


【原市の杉並木】 
植樹されたのは731本、日光の杉並木と並び称された。昭和8年321本、52年57本、現在は?



榛名山


【原市八本木地蔵堂】
100年に一度ご開帳。日本三地蔵の一つ




丁度、中秋の名月だった。6時、磯部に到着。陽が短くなった。

【今回の旅】
・実施日 平成19年(07)9月25日(火)午前10時から     午後6時
・天 候 晴れ 気温30度前後、汗だくになってしまった。
・メンバー4人
・距 離 直線で16Km位(自宅から自宅33,757歩・約24     Km)
・見 所  諏訪神社
      長松寺本堂の天井絵(龍)
      小林山達磨寺     
・残 念 「皇女和宮資料館」が全く整備されていなかった      こと。
・驚 き 板鼻公民館の女子事務員の態度
・満足度 あまりない。
     磯部で見た中秋の名月と『恵みの湯』には満足。 

【どこまで来たか?】
・宿  :六十九次中、15番目(安中宿)
・距離 :534Km中、125Km

【今回の駄作俳句】
 秋彼岸 忠長さびしき 大信寺
 秋暑し 皇女泊まれし 板鼻に
 中秋の 月に照らさる 磯部かな

【次回予定】
松井田宿、坂本宿を通り、いよいよ碓氷峠越え軽井沢宿へ。
いよいよ信濃路。


松井田宿(広重画)
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