間(あい)の宿 吹上宿から熊谷宿へ
【権八地蔵堂】
歌舞伎でお馴染み(白井権八)がここで上州の商人を殺して金を奪うが、見ていた地蔵に「このことは他言するなよ」と話しかけると、地蔵が「われは言わぬが、おぬしも言うなよ」と言ったところから、「物言い地蔵」と呼ばれている。
※歌舞伎「鈴が森」の中で、江戸の侠客・幡隋院長兵衛に「お若えのお待ちなせやし」の名台詞で呼び止められる美少年侍・白井権八(本名・平井権八)のこと。故郷の因幡(鳥取)で父の友人と飼い犬のことで喧嘩、殺傷し、江戸に逃げた。
吉原の遊女・小紫・・・辻斬りなどして生活・・・大森の鈴が森の刑場で磔刑。権八地蔵は、分かっているだけで3箇所あるという。
【久下(くげ)の長土手】
「久下の長土手、深谷の並木、さぞや寒かろ淋しかろ」(俗謡)
「熊谷の堤上がればけしの花」(森川許六)
暑いー。余り風が吹かない。同じような景色が延々と続く。途中で17号に出て、昼食。和食「いちまる」。うまかった。
【高城神社】
熊谷氏の氏神 熊谷氏は桓武平氏の流れをくむ家柄。平安時代からの古社社殿は天正18年(1591)豊臣軍の忍城攻めの兵火で類焼。現在の建物は江戸期のもの。赤石を沢山敷き詰めた祠がある。(子供の「お食い初め」に借りていき「立派な歯になるように」と願う。
熊野神社・・・境内入口左。直実の父・直貞がこの辺りを荒らしていた熊を退治して、熊野権現堂を築いた。このことから「熊谷」という地名が出たといわれている。
【高城神社】手水舎(ちょうずや・てみずや)の角に龍か。拝殿左側には7社。 左から伊奈利大神・香取大神・鹿島大神・大国主大神・八幡大神・琴平大神・白山大神。染料業者から寄進された青銅常夜燈籠。
【熊谷宿(江戸より8番目の宿】
中山道宿村大概帳」によると、熊谷宿は、本陣2、脇本陣1、総家数1075、人口3263、旅籠19で、中山道では3番目の規模を誇っていた。熊谷大空襲 昭和20年8月14日、23時20分頃から翌日の午前4時半過ぎまで、5時間余り。歴史に「もしも・・・」「あと少し・・・」はないと云うけれど。
【浄土宗蓮正山熊谷寺(ゆうこくじ)】
熊谷直実ゆかりの寺。大屋根の四隅には、守り神の逆さ獅子が。
熊谷寺(ゆうこくじ)内
熊谷直実(※)の墓と伝えられる宝篋印塔(ほうきょういんとう)。両脇に夫人と子供の墓。(写真上)その墓が、荒れ放題になっている。どうしたんだろう?(写真下)
お寺といさかいでもあったのか、見苦しきかな。大きくて立派なお寺だが、何か変な感じがした。
【熊谷直実(くまがいなおざね)】
熊谷直定・直実父子は、源頼朝挙兵時には、平家方から源氏方について数々戦功。源平一ノ谷の合戦、鵯(ひよどり)越えの坂落しで平家の背後から戦いを仕掛ける義経、・・・源氏優勢の中、平氏敗走・・・。沖の味方の船に向かって愛馬を泳がせる平家の一人の武者。
「敵に後ろを見せなさるな!お帰りあれ!」直実の招きの応じ引き返した武者、組み打ちし押さえ込まれ、直実が首を取ろうと顔を見ると、薄化粧した紅顔の美少年。同じ年頃の子・直家を持つ直実がどうして刃を当てられようか。
「お名乗りください。お助けしましょう」
「名乗らずとも、知る人がありましょう。首を取って聞いて ください」・・・・
その若武者こそ、平清盛の甥・敦盛だった。その後、直実は蓮生坊と名乗り仏門に入り、高野山に敦盛の供養等を立てる。やがて、故郷の熊谷に戻り、草庵を結ぶ。その跡に戦国時代、熊谷寺(ゆうこくじ)が開かれた。
(平家物語においては、若い敦盛を討った際に、殺生の虚しさに気付き、敦盛の供養のために出家したとされているが、事実は叔父との領地を巡る訴訟に敗れた為とも言われている。)
・・・織田信長の好んだ歌『人間五十年、下天のうちをくらぶれば、夢幻の如くなり。一度生を享け滅せぬもののあるべきか』は幸若『敦盛』の一節である。
「織田信長の好んだ歌」
http://www.shigin.com/room/nobunaga_uta.htm
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%8A%E8%B0%B7%E7%9B%B4%E5%AE%9F
【一茶の句】(熊谷寺(ゆうこくじ)内)
陽炎(かげろう)やむつましげなるつかと塚
寛政3年(1791) 29歳、蓮生寺に参。是は次郎直実発心して造りし寺とかや。蓮生・敦盛並て墓の立るもまた哀也・・とある。敦盛は一の谷の合戦で直実に討たれたと解説にある。(岩波文庫/一茶俳句集/丸山一彦校注)。
【星渓園】
竹井本陣の別邸といわれる。熊谷地方の産業経済の発展に貢献した竹井澹如(たんじょ)が慶応年間から明治初年にかけて造った回遊式の庭園。
一里塚のケヤキ。昔は五間四方の石垣に囲まれて、道の両側に植わっていたそうな。
【今回の旅】
・実施日 19年7月29日(日)午前10時から午後5時
・天候
曇り 気温28~30度超か 関東は、北も南も大荒れの天気だったそうだが、なぜか、我々の歩く場所は、平穏だった。少し暑すぎた。
・メンバー4人
・距離 直線で16Km位 (自宅から自宅 33,160歩・ ・・約24Km)
・見所 熊谷寺(ゆうこくじ)(熊谷宿)
・残念 熊谷寺内の熊谷直実のお墓が、荒れ放題だった こと。
・満足
JR籠原駅周辺には、飲み屋、食べもの屋なし。仕方なしに入ったトンカツ屋(とんふみ)、これが大当たり。実にうまかったし、量もよし、値段安し。酒もよしでした。
【今回の駄作俳句】
歩むのみ 久下の長土手 草いきれ
直実や 蝉鳴く熊谷 墓は荒れ
【次回予定】
深谷宿から本庄宿へ
本庄宿 神流川渡場(英泉画)
参勤交代の大名行列が橋をわたって行く。右端には常夜灯が。背景の山は上毛三山で、左から妙義山、榛名山、赤城山。さらに妙義山の後の山は信州の浅間山(写っていない)、赤城山の後の山は、奥日光の白根山であろうと云われている。いよいよ山々が見えてくる旅となる。
【権八地蔵堂】
歌舞伎でお馴染み(白井権八)がここで上州の商人を殺して金を奪うが、見ていた地蔵に「このことは他言するなよ」と話しかけると、地蔵が「われは言わぬが、おぬしも言うなよ」と言ったところから、「物言い地蔵」と呼ばれている。
※歌舞伎「鈴が森」の中で、江戸の侠客・幡隋院長兵衛に「お若えのお待ちなせやし」の名台詞で呼び止められる美少年侍・白井権八(本名・平井権八)のこと。故郷の因幡(鳥取)で父の友人と飼い犬のことで喧嘩、殺傷し、江戸に逃げた。
吉原の遊女・小紫・・・辻斬りなどして生活・・・大森の鈴が森の刑場で磔刑。権八地蔵は、分かっているだけで3箇所あるという。
【久下(くげ)の長土手】
「久下の長土手、深谷の並木、さぞや寒かろ淋しかろ」(俗謡)
「熊谷の堤上がればけしの花」(森川許六)
暑いー。余り風が吹かない。同じような景色が延々と続く。途中で17号に出て、昼食。和食「いちまる」。うまかった。
【高城神社】
熊谷氏の氏神 熊谷氏は桓武平氏の流れをくむ家柄。平安時代からの古社社殿は天正18年(1591)豊臣軍の忍城攻めの兵火で類焼。現在の建物は江戸期のもの。赤石を沢山敷き詰めた祠がある。(子供の「お食い初め」に借りていき「立派な歯になるように」と願う。
熊野神社・・・境内入口左。直実の父・直貞がこの辺りを荒らしていた熊を退治して、熊野権現堂を築いた。このことから「熊谷」という地名が出たといわれている。
【高城神社】手水舎(ちょうずや・てみずや)の角に龍か。拝殿左側には7社。 左から伊奈利大神・香取大神・鹿島大神・大国主大神・八幡大神・琴平大神・白山大神。染料業者から寄進された青銅常夜燈籠。
【熊谷宿(江戸より8番目の宿】
中山道宿村大概帳」によると、熊谷宿は、本陣2、脇本陣1、総家数1075、人口3263、旅籠19で、中山道では3番目の規模を誇っていた。熊谷大空襲 昭和20年8月14日、23時20分頃から翌日の午前4時半過ぎまで、5時間余り。歴史に「もしも・・・」「あと少し・・・」はないと云うけれど。
【浄土宗蓮正山熊谷寺(ゆうこくじ)】
熊谷直実ゆかりの寺。大屋根の四隅には、守り神の逆さ獅子が。
熊谷寺(ゆうこくじ)内
熊谷直実(※)の墓と伝えられる宝篋印塔(ほうきょういんとう)。両脇に夫人と子供の墓。(写真上)その墓が、荒れ放題になっている。どうしたんだろう?(写真下)
お寺といさかいでもあったのか、見苦しきかな。大きくて立派なお寺だが、何か変な感じがした。
【熊谷直実(くまがいなおざね)】
熊谷直定・直実父子は、源頼朝挙兵時には、平家方から源氏方について数々戦功。源平一ノ谷の合戦、鵯(ひよどり)越えの坂落しで平家の背後から戦いを仕掛ける義経、・・・源氏優勢の中、平氏敗走・・・。沖の味方の船に向かって愛馬を泳がせる平家の一人の武者。
「敵に後ろを見せなさるな!お帰りあれ!」直実の招きの応じ引き返した武者、組み打ちし押さえ込まれ、直実が首を取ろうと顔を見ると、薄化粧した紅顔の美少年。同じ年頃の子・直家を持つ直実がどうして刃を当てられようか。
「お名乗りください。お助けしましょう」
「名乗らずとも、知る人がありましょう。首を取って聞いて ください」・・・・
その若武者こそ、平清盛の甥・敦盛だった。その後、直実は蓮生坊と名乗り仏門に入り、高野山に敦盛の供養等を立てる。やがて、故郷の熊谷に戻り、草庵を結ぶ。その跡に戦国時代、熊谷寺(ゆうこくじ)が開かれた。
(平家物語においては、若い敦盛を討った際に、殺生の虚しさに気付き、敦盛の供養のために出家したとされているが、事実は叔父との領地を巡る訴訟に敗れた為とも言われている。)
・・・織田信長の好んだ歌『人間五十年、下天のうちをくらぶれば、夢幻の如くなり。一度生を享け滅せぬもののあるべきか』は幸若『敦盛』の一節である。
「織田信長の好んだ歌」
http://www.shigin.com/room/nobunaga_uta.htm
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%8A%E8%B0%B7%E7%9B%B4%E5%AE%9F
【一茶の句】(熊谷寺(ゆうこくじ)内)
陽炎(かげろう)やむつましげなるつかと塚
寛政3年(1791) 29歳、蓮生寺に参。是は次郎直実発心して造りし寺とかや。蓮生・敦盛並て墓の立るもまた哀也・・とある。敦盛は一の谷の合戦で直実に討たれたと解説にある。(岩波文庫/一茶俳句集/丸山一彦校注)。
【星渓園】
竹井本陣の別邸といわれる。熊谷地方の産業経済の発展に貢献した竹井澹如(たんじょ)が慶応年間から明治初年にかけて造った回遊式の庭園。
一里塚のケヤキ。昔は五間四方の石垣に囲まれて、道の両側に植わっていたそうな。
【今回の旅】
・実施日 19年7月29日(日)午前10時から午後5時
・天候
曇り 気温28~30度超か 関東は、北も南も大荒れの天気だったそうだが、なぜか、我々の歩く場所は、平穏だった。少し暑すぎた。
・メンバー4人
・距離 直線で16Km位 (自宅から自宅 33,160歩・ ・・約24Km)
・見所 熊谷寺(ゆうこくじ)(熊谷宿)
・残念 熊谷寺内の熊谷直実のお墓が、荒れ放題だった こと。
・満足
JR籠原駅周辺には、飲み屋、食べもの屋なし。仕方なしに入ったトンカツ屋(とんふみ)、これが大当たり。実にうまかったし、量もよし、値段安し。酒もよしでした。
【今回の駄作俳句】
歩むのみ 久下の長土手 草いきれ
直実や 蝉鳴く熊谷 墓は荒れ
【次回予定】
深谷宿から本庄宿へ
本庄宿 神流川渡場(英泉画)
参勤交代の大名行列が橋をわたって行く。右端には常夜灯が。背景の山は上毛三山で、左から妙義山、榛名山、赤城山。さらに妙義山の後の山は信州の浅間山(写っていない)、赤城山の後の山は、奥日光の白根山であろうと云われている。いよいよ山々が見えてくる旅となる。
老?俳句仲間九名の一人です。
毎夜句会を開きながらの行脚です。
権八地蔵、一里塚の欅、久下の長土手は昨年の
四月二十六日に歩きました。(当時は日帰り)懐かしく思い出しながら貴ブログを拝見しています。五月には美江寺から柏原あたりまで進み
途中中山道を逸れて琵琶湖近辺で日程調整して
十一月の紅葉にあわせて上洛の予定をしています。順調な旅を続けられる様お祈りします。
既に京都へゴ-ルをされた大先達でいらっしゃるのですね。大変失礼しました。美しい写真と
あわせてこれからの参考にさせて頂きます。
彦根はいいですね。
嬉しいコメント有難うございます。親しい仲間との旅は何ともいえないほど楽しいものですね。
我々は先週、桜満開の京都に到達しましたが、京都の紅葉はまた素晴らしいみたいですね。
ゆっくり、じっくり、旅を楽しんでください。