
廃止まで碓氷峠を走り続けたEF63形電気機関車。
新しい車両で復活へ向けた動きが進んでいる=1997年8月
急勾配(こうばい)の難所として知られ、長野新幹線の開業に伴い平成9年に廃線となったJR信越線の横川(群馬県)-軽井沢(長野県)間11.2キロに、再び鉄道が走ることになりそうだ。群馬県安中市の「碓氷(うすい)峠交流記念財団」が、平成12年3月施行の改正鉄道事業法で新設された観光用の「特定目的鉄道」として来年10月の復活を検討。自動車のエンジンブレーキに当たる装備の導入など安全面に配慮した計画を9月上旬にもまとめる。許可申請が認められれば全国初。峠に鳴り響く汽笛を心待ちにしている人は多い。(大竹直樹)
以上産経新聞 平成18年8月28日より転載

日本最初の電気機関車。1911年(明治44)ドイツAEG社製。碓氷峠の1000分の66.7という急勾配に対応するために、レールとレールの中央にもう1本歯型レールを設置し、電気機関車側の歯車をかみ合わせて運転する方式で、ドイツ人技師ロマン・アプトが考えた方式なので「アプト式」と名付けられた。(「鉄道探検」より)
碓氷峠の電化 信越本線横川~軽井沢間では、開通当初は蒸気機関車が使用されました が、わずか11.2kmという区間に26ものトンネルがあったことから煤煙が問題となりました。 煙に巻かれた乗務員が窒息するという事故が発生したのです。 ...(「鉄道博物館」より)

<「D51」の雄姿 JR東日本「車両図鑑」より
昭和37年信州佐久より上京の頃は未だ蒸気機関車が走っていた。こうやって写真を見ると「なかなかの雄姿」だと思う。信州の山間を、田園を、雪の中を、紅葉の中を走る蒸気機関車は風情があって「絵」になる。
信越線・上田駅を出発し、小諸を過ぎて御代田駅でスイッチバックして山の勾配に対応する。今来た道を帰っていくわけだから初めてのときはびっくりした。
・・・駅そのものがスイッチバックのまんなかにあった。汽車に乗った人を見送っても、ふたたびホームに戻ってきて、方向をかえてまた出発してゆく。・・・(「鉄道探検」より)
軽井沢では電気機関車(アブト式)に連結して押してもらいながら碓氷峠を登る。トンネルでは窓は開けないようにした。石炭の煤煙が飛び込んでくるからだ。横川では大体釜めしを食べた。当時は未だ一つ一つを釜で炊いていたせいもあると思うが、「美味かった」。峠を降りて関東平野に入ると行けども行けども平野が続くのにはびっくりした。「こういうところの百姓は楽でいいナー」と思ったりした。当時急行列車たるものがあったかは知らないが、各駅停車で上田駅~上野駅まで6時間位かかった記憶がある。(もしかしたら佐久の茂田井から上田までのバス1時間がは入っているかもしれない。)初めて夜行で上京する時なぞ母親から「泥棒がいるから寝ちゃ駄目だぞ」と云われ、その通りにした思い出がある。これをなんと云おうか。
<昭和37年、東京オリンピックの1年前の年。18歳。「仕送り不要」と元気よく東京に向かった。会社勤め(銀座)と夜間大学(御茶の水)。初任給は確か9800円位。国分寺での家賃1畳1000円、3畳一間の生活。上京1年位は喫茶店は”何か怖くて”入れなかった。この辺の話は、同じ頃上京した「田舎者」と話すと変な自慢話が沢山出てきて楽しい。金はなかったが、悲壮感のない充実した日々を過ごしてきたような気がする。>