蕨(わらび)宿から上尾宿へ
【蕨市立歴史民俗資料館(本陣跡】
蕨宿本陣に宿泊の際の「皇女和宮御下向の際の御用日記」
分厚い日誌を見れば、大変さが分かるような気がする。この資料を含め、蕨市立歴史民俗資料館(本陣跡)は、非常によく整理されていて、分かりやすかった。
【調(つきのみや)神社】 平安時代の古社(謎の多い神社)
・鳥居がない
・狛犬の代りに兎が鎮座
・神社に必ず見られる松がない。代わりにケヤキ。ケヤキの別名「槻木」(つきのき)(ツキは待つ(松)のが嫌い?)調が月と転じて、うさぎを神の使い姫とする月神信仰と結びついたという説。
境内の水屋で霊水を注いでいるのも兎(写真中)。説明に、「ツキを頂いてください」とある。しっかりお参りをした。
公園側に埼玉女流俳人の先人 長谷川かな女の句碑あり。
生涯の 影ある秋の 天地かな
【二七市の跡碑】
御免 毎月二七市場定杭 天正十八年(1590)七月 小田原攻略に成功した、名実ともに天下統一を果たした豊臣秀吉。すぐに戦後処理に努め、家臣浅野長吉に市を開かせた。非常に貴重なものらしい。
浦和宿・浅間山遠望<英泉画>
もう大宮宿の家並みが見えている。馬のすぐ後ろで、村の子供が肥料にする馬糞を集めている。浅間山の噴煙が見える。
【大宮氷川神社】参道(古中山道)
氷川神社は東京都と埼玉県、元荒川を東の限界とし、西は多摩川を限界。鎌倉時代、源頼朝が社殿を再興し、また、足利・北条、徳川氏も造営整備に尽くしたという。一の鳥居から社殿までの参道は、ケヤキやエノキなどの木々が約2Kmも続き、気持ちよく歩ける。神社は、ミニ平安神宮のような感じだ。
大宮宿・富士遠景<英泉画>
街道に植えられた桜が満開で気候は冬から春に向かいつつある。富士山も裾野の方から雪が溶けて黒い地肌を見せてきている。農夫が竹かごを背負った少女を従えて家路を急ぐ。
鬼瓦が、塀の上に鎮座している。脇本陣の建物にあった鬼瓦だそうだ。この瓦の大きさから、さぞ立派な家屋であったろうと想像する。
【氷川鍬神社】ご神体が鍬二挺。上尾郷二賢堂碑
雲室上人(信州生まれ、浄土真宗の名僧)山崎武平次(国学者)が学校を開いた。
上尾宿・加茂之社<英泉画>
加茂の社の隣、一家総出で籾(もみ)の精選の絵。俵詰めの籾はそのまま年貢として納入された。
【今回の旅】
気温はそう高くなく、少し風もあり、さわやかな道中であった。最後の方は強風が吹いたが。
・歩 数 38,940(自宅から自宅)
・距 離 28,04Km(蕨宿・上尾宿間実質18Km)
・消費カロリー 1,128カロリー
上尾駅近くの酒場「日本海庄や」での酒は、THE・燗酒(酒造文楽・上尾市)。うまかった。ビールは少し冷えすぎだったが。課題は少し歩きすぎか。もう少し余裕を持って終了できるようにさた方がいいか。先は長い。
【今回の駄作】
出立は 蕨の宿や 初夏の旅
新緑や 迎えは兎 調神社
不思議なり 兎出迎え 春の調
青嵐 大宮氷川 古参道
【次回予定】
桶川宿<英泉画>
この辺りは、大宮台地の中で最も高い場所に位置し、周囲には麦畑が多かった。麦をこく農婦、囲炉裏から煙管の煙草に火を付けようとしている農夫。農婦に道を尋ねる町人風の旅人の絵。
鴻巣宿・吹上<英泉画>
吹上から熊谷宿に向かって出た辺りからの富士遠望の絵。虚無僧を始め、色々な旅人がすれ違う。周りは麦畑、木々は榎(えのき)の木。
【歌川広重と渓斎英泉】
江戸時代に制定された5街道の1つが中山道です。中山道は別名「木曽街道」「木曽海道」とも呼ばれ、参勤交代や行商などに非常に重要な役割を果たしました。
江戸の浮世絵師、歌川広重(1797-1848)と渓斎英泉(1790-1848)によって描かれた《木曽海道六十九次》は東京・日本橋から滋賀県・大津までの69の宿場を描いたシリーズものの浮世絵です。当初、版元(現在の出版社のような組織)からこのシリーズの制作を依頼されたのは英泉でした。しかし、そのような理由からか第12図より広重が参加し、交互に宿場を描いていきます。
第24図からは広重の担当が多くなり、最終的にシリーズを完成させたのは広重でした。
現代のように文明も交通網も発達していない時代、「旅」は非常に苦労を伴うのでした。豊かで美しい自然は人々の眼を楽しませるものでもあり、人の力など及ばない大きな力と厳しさを持って旅人の行く手を阻んだりもしました。そんな中でも人々は逞しさや温かい人情を持って旅を続けていました。
http://www1.ocn.ne.jp/~kisoji/kisokaidou.html
【蕨市立歴史民俗資料館(本陣跡】
蕨宿本陣に宿泊の際の「皇女和宮御下向の際の御用日記」
分厚い日誌を見れば、大変さが分かるような気がする。この資料を含め、蕨市立歴史民俗資料館(本陣跡)は、非常によく整理されていて、分かりやすかった。
【調(つきのみや)神社】 平安時代の古社(謎の多い神社)
・鳥居がない
・狛犬の代りに兎が鎮座
・神社に必ず見られる松がない。代わりにケヤキ。ケヤキの別名「槻木」(つきのき)(ツキは待つ(松)のが嫌い?)調が月と転じて、うさぎを神の使い姫とする月神信仰と結びついたという説。
境内の水屋で霊水を注いでいるのも兎(写真中)。説明に、「ツキを頂いてください」とある。しっかりお参りをした。
公園側に埼玉女流俳人の先人 長谷川かな女の句碑あり。
生涯の 影ある秋の 天地かな
【二七市の跡碑】
御免 毎月二七市場定杭 天正十八年(1590)七月 小田原攻略に成功した、名実ともに天下統一を果たした豊臣秀吉。すぐに戦後処理に努め、家臣浅野長吉に市を開かせた。非常に貴重なものらしい。
浦和宿・浅間山遠望<英泉画>
もう大宮宿の家並みが見えている。馬のすぐ後ろで、村の子供が肥料にする馬糞を集めている。浅間山の噴煙が見える。
【大宮氷川神社】参道(古中山道)
氷川神社は東京都と埼玉県、元荒川を東の限界とし、西は多摩川を限界。鎌倉時代、源頼朝が社殿を再興し、また、足利・北条、徳川氏も造営整備に尽くしたという。一の鳥居から社殿までの参道は、ケヤキやエノキなどの木々が約2Kmも続き、気持ちよく歩ける。神社は、ミニ平安神宮のような感じだ。
大宮宿・富士遠景<英泉画>
街道に植えられた桜が満開で気候は冬から春に向かいつつある。富士山も裾野の方から雪が溶けて黒い地肌を見せてきている。農夫が竹かごを背負った少女を従えて家路を急ぐ。
鬼瓦が、塀の上に鎮座している。脇本陣の建物にあった鬼瓦だそうだ。この瓦の大きさから、さぞ立派な家屋であったろうと想像する。
【氷川鍬神社】ご神体が鍬二挺。上尾郷二賢堂碑
雲室上人(信州生まれ、浄土真宗の名僧)山崎武平次(国学者)が学校を開いた。
上尾宿・加茂之社<英泉画>
加茂の社の隣、一家総出で籾(もみ)の精選の絵。俵詰めの籾はそのまま年貢として納入された。
【今回の旅】
気温はそう高くなく、少し風もあり、さわやかな道中であった。最後の方は強風が吹いたが。
・歩 数 38,940(自宅から自宅)
・距 離 28,04Km(蕨宿・上尾宿間実質18Km)
・消費カロリー 1,128カロリー
上尾駅近くの酒場「日本海庄や」での酒は、THE・燗酒(酒造文楽・上尾市)。うまかった。ビールは少し冷えすぎだったが。課題は少し歩きすぎか。もう少し余裕を持って終了できるようにさた方がいいか。先は長い。
【今回の駄作】
出立は 蕨の宿や 初夏の旅
新緑や 迎えは兎 調神社
不思議なり 兎出迎え 春の調
青嵐 大宮氷川 古参道
【次回予定】
桶川宿<英泉画>
この辺りは、大宮台地の中で最も高い場所に位置し、周囲には麦畑が多かった。麦をこく農婦、囲炉裏から煙管の煙草に火を付けようとしている農夫。農婦に道を尋ねる町人風の旅人の絵。
鴻巣宿・吹上<英泉画>
吹上から熊谷宿に向かって出た辺りからの富士遠望の絵。虚無僧を始め、色々な旅人がすれ違う。周りは麦畑、木々は榎(えのき)の木。
【歌川広重と渓斎英泉】
江戸時代に制定された5街道の1つが中山道です。中山道は別名「木曽街道」「木曽海道」とも呼ばれ、参勤交代や行商などに非常に重要な役割を果たしました。
江戸の浮世絵師、歌川広重(1797-1848)と渓斎英泉(1790-1848)によって描かれた《木曽海道六十九次》は東京・日本橋から滋賀県・大津までの69の宿場を描いたシリーズものの浮世絵です。当初、版元(現在の出版社のような組織)からこのシリーズの制作を依頼されたのは英泉でした。しかし、そのような理由からか第12図より広重が参加し、交互に宿場を描いていきます。
第24図からは広重の担当が多くなり、最終的にシリーズを完成させたのは広重でした。
現代のように文明も交通網も発達していない時代、「旅」は非常に苦労を伴うのでした。豊かで美しい自然は人々の眼を楽しませるものでもあり、人の力など及ばない大きな力と厳しさを持って旅人の行く手を阻んだりもしました。そんな中でも人々は逞しさや温かい人情を持って旅を続けていました。
http://www1.ocn.ne.jp/~kisoji/kisokaidou.html
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