地遊人

日常のことごと、出来事を、気ままに書き記していく。
62歳からの自己整理・自己満足策とボケ防止挑戦プログ。

中山道六十九次を行く-7-

2007年09月26日 | 【17】中山道(予備)
高崎宿から板鼻宿を通り安中宿へ


○三代将軍家光の弟(秀忠の三男)忠長の墓(大信寺内)
 高崎城に幽閉・自刃、享年29歳
 将軍継承問題・・・二代将軍秀忠の忠長偏愛を、家光の乳母・春日局が
 家康に直訴。家康は元和元年(1615)、家光を将軍の後継者に決定、
 翌年没した。その後、忠長はで非行があったという名目など、家光に疎
 んじられ・・・

 大信寺内には、幼稚園が併設され、忠長の墓の周りは、無縁仏の墓か、
 多数の墓石が集積され・・・嫌だねー




◎諏訪神社
 土蔵造りの小さな神社、建物は龍の絡まる鳥居が張り付けてある。
 信州諏訪より48の宝石を勘請した沼田城主真田氏が箕輪に祀うった2の宝石
 のうち1つが祀られている。彫刻がすごい。物語風の彫刻も。




○高崎城跡・櫓・東門




○長松寺
 写真中:天女絵(玄関天井なので結構傷んでいる)、下:本堂の龍
 このお寺の、若い多分住職だと思うが、丁寧に忠長自刃の部屋を見せて
 くれたり、本堂の龍(天井絵)、天女(天井絵)などお寺の歴史を含め
 説明してくれた。(天井絵:狩野探雲作ー江戸時代)

 こういう住職にはしっかりした檀家がついて行くだろうなと思う。
  




◎小林山達磨寺(開山は心越禅師)
【達磨寺縁起】
 昔、碓井川のほとりに観音様のお堂がありました。ある年、大洪水
 のあと川の中に光るものがあるので、里人が不審に思ってみますと
 香気のある古木でした。
 これを霊木としてお堂にお納めて置きますと、延宝八年(1680)
 一了居士という行者が信心を凝らして一刀三礼、この霊木で達磨大師
 の座禅像を彫刻してお堂にお祀りしました。
 まもなく、達磨大師の霊地少林山として知られると、元禄十年(1697)
 領主酒井雅楽頭は、この地に水戸光圀公の帰依された中国の帰化僧心越
 禅師を開山と仰ぎ、弟子の天湫和尚を水戸から請じ、少林山達磨寺(曹洞宗)
 を開創しました。
 享保十一年(1726)水戸家は、三葉葵の紋と丸に水の微章を賜い永世の
 祈願所とされました。
 のち、隠元禅師を中興開山に仰ぎ、黄檗宗に改め以来法灯連綿として今日に
 至っております。


 遠くに妙義山が見えてきた。あの山の向こうは、信濃の国だ。


◎皇女和宮資料館(木島本陣の書院)
 板鼻公民館が管理しているというので、お願いすると、女子事務員が別棟の
 資料館のカギを開けてくれたはいいが、目も合わせず、一言もなしでカギを
 開けて、公民館に帰ってしまった。なに?で皆でブーイング。
 そんなことと資料館の中は薄暗く見難いし、系列だっていないしで10分位で
 出てしまった。ったくーだ。何か巻物が埃だらけの棚の上に2,3乗っていた。
 皇女和宮がこの板鼻宿に泊まった時の貴重な体験、資料があるのになー。
 今回の旅で一番期待していただけに残念。この市には人材が居ないのか。怒。
 改善委員会には、長松寺の和尚さんを入れるべきだ。本当に。


○原市の杉並木
 植樹されたのは731本、日光の杉並木と並び称された。
 昭和8年321本、52年57本、現在は?


 榛名山


○原市八本木地蔵堂(100年に一度ご開帳。日本三地蔵の一つ)



丁度、中秋の名月だった。6時、磯部に到着。陽が短くなった。

【今回の旅】
・実施日 平成19年(07)9月25日(火)午前10時から午後6時
・天 候 晴れ 気温30度前後か、汗だくになってしまった。
・メンバー4人
・距 離 直線で16Km位(自宅から自宅33,757歩・約24Km)
・見 所 諏訪神社
      長松寺本堂の天井絵(龍)
      小林山達磨寺     
・残 念 「皇女和宮資料館」が全く整備されていなかったこと。
・驚 き 板鼻公民館の女子事務員の態度
・満足度 あまりない。
      磯部で見た中秋の名月と『恵みの湯』には満足。 

【どこまで来たか?】
・宿  :六十九次中、15番目(安中宿)
・距離 :534Km中、125Km

【今回の駄作俳句】
・秋彼岸 忠長さびしき 大信寺
・秋暑し 皇女泊まれし 板鼻に
・中秋の 月に照らさる 磯部かな

【次回予定】
松井田宿、坂本宿を通り、いよいよ碓氷峠越え
軽井沢宿へ。
いよいよ信濃路。


松井田宿(広重画)


坂本宿(英泉画)


軽井沢宿(広重画)


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ひとすじの蛍火 吉田松陰人とことば

2007年09月24日 | 【13】図書館活用

初めて吉田松陰について本で読んだ。松陰と高杉晋作を描いた司馬遼太郎
の「世に棲む日日」を読みたいと思う。

【本の内容 】文春新書 585
幕末の志士、松下村塾の指導者だった吉田松蔭の遺した百の珠玉の
ことばから、まっとうに生きた稀有な人の生涯をたどる。
今の日本にもっとも必要とされている人の姿が、ここにある。
「今をいかによく生きるか」を、吉田松陰とともに考える

【目次 】
第1章 春
第2章 夏
第3章 秋
第4章 冬
第5章 春、再び
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援農ボランティア作業日誌ー90-

2007年09月19日 | 【3】援農ボランティア(東京の青空塾)

07-9-19
【今日の作業】
1.ニンジン(写真上)の間引き
2.ハウス内にトマトの枯れ木片付け
  密集しているニンジンは、12~3cm間隔で間引いていく。
  今日の気温は27、8度か、まあ作業はし易かった。


ジャガイモは、ほぼ生え揃ってきた。こんどは大丈夫に見える。


今年の利平栗。通常の栗より黒い。味は抜群のはず。
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援農ボランティア作業日誌ー89-

2007年09月15日 | 【3】援農ボランティア(東京の青空塾)

07-9-15
【今日の作業】
1.さつま芋畑の雑草取り(写真上)
2.ネギ畑の雑草取り
3.栗拾い(写真下)

 暑い日だったー。水分補給も間に合わない位に。真夏の暑さ。
 それにしても農家は雑草との戦いですな。雑草の勢いはすごいことだ。
 この雑草を始末しておかないと、いい作物が出来ない。
 いい養分をみんな雑草に持って行かれてしまうんだ。


ブロッコリーが芯食い虫にやられた。それと先日の台風の影響とか。
どの程度残っていくか。



栗の美味さを想像する。
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地蜂取り

2007年09月14日 | 【14】信州田舎時代

07-9-14
そう、秋になるとたまに思い出すのが、地蜂取りだ。
小学校の時だったか、学校の帰りに地蜂取りをしたことがあったっけ。

先ずすることは蜂の餌探しだが、手ごろなのはトンボだが一番いいのは
カエルのももの肉だ。残酷だったかなー
小さな真綿に餌を付けるのだが、ここが、一番の重要なところ。
軽からず、重からず。地蜂が巣に餌を運ぶときの目印になるんだから。
軽いと我々の足がついていけないし、重いと巣までたどり着けない。
それから地蜂探し。低い木々、葉、特に唐松の木にいた。
蜂の鼻先に餌をくっつけてやるんだ。

咥えたらもう後は追いかけるのみ。ランドセルなんか置いて追いかける。
青空に舞う、小さな白い真綿を追いかけて。声掛け合って。
いくつも畑を横切り、小川を跳び越し、絶対目印を見失わないように。
どこまでも、どこまでも巣にたどり着くまで。



蜂が土手の小さな穴に入る。ただ、小さくても真綿までは入らない。
我々は、ここでしばし休憩するのだ。
もう慌てることはない。巣は見つけたんだ、巣は逃げない。
どの辺にランドセルを置いてきたか、遠い彼方を見つめてみる。
そして、出入りする地蜂の巣を見ながら、この小さな穴の向こうには、
何段の巣があるんだろうか?5段、6段?

さて、やるべきことは蜂たちを始末すること。蚕で使う網を顔に巻き、
使い古しの歯ブラシに火をつけ、煙を小さな穴に吹き込んでやるんだ。
這いつくばって、しつこく、何回も何回も、交代で。
ただ、働き蜂が帰ってきて巣に入る時は、サッと避けるんだ。
いつかは、誰か短い導火線を持っている者もいたが。これは楽だった。
火をつけて穴の中に差し込んで、しばらく待てばもう終わりだった。
さて、土手の土を掘り起こす。巣が出てくる。沢山の酔っている地蜂。
何段かの巣を袋にごっそり取り込んで、逃げるんだ。
蜂共の酔いがさめる前に。

順調に行けばこういうことだが、いつかは袖口から地蜂が入り込んで、
一度に2匹に刺されたことがことがあった。
小さい蜂なんだが、どうしてこうも痛いのか、頭の中が真っ白になって、
桑畑の中を泥だらけになって、のたうち回ったことがあったっけ。
小便をかけまくったなー、それが効くもんだと信じていたから。

収穫した地蜂の調理は極めてシンプル。
巣の白い蓋を破り、逆さにして油をしいたフライパンの上にトントンと
たたいて、白い小さな蜂の子(さなぎ)を落とすんだ。
砂糖少々、醤油少々で煎る。
ご飯の上に掛けて食べる。香ばしさと、新鮮な味と。
質素で、毎日変わり映えしない農家の夕飯の食卓に、動物性たんぱく
質の、小さな一品が加わることになる。
それにしても、古い歯ブラシとかセルロイド、導火線、マッチ、網など、
ランドセルの中によく入れておいたもんだなーと、今は不思議な感じだ。
多分、皆で分担したんだと思うが、今、その頃の仲間と会う機会がない。
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ジョーバの時間だよー

2007年09月10日 | 【15】雑感

07-9-10
10日ほど前、思い切って、通販で高価な馬を一頭購入した。
目的は、
母上(87歳)のリハビリがメインで、あとは我々の運動促進というところ。
3人でほぼ同じくらいの出資だ。
どれほどの効果があるか、あまり期待しないで継続して乗ることにしている。
まあ、座っていれば、色々な乗り心地を味わえる代物で、不精の人には
うってつけという機械、これを考えて作り上げた人たちも、多分、不精な人
たちなんだろうなと思う。
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黒あげは

2007年09月04日 | 【5】庭を楽しむ



07-9-4
黒あげはが、庭に咲く、デュランタ・バイオレット(ラベンダー)の花に
寄ってきた。
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中山道六十九次を行く-6-

2007年09月03日 | 【17】中山道(予備)
本庄宿から高崎宿へ 上野の国へ入る

田村本陣の門(移築)


歴史民俗資料館
資料館本体は、元の本庄警察署(明治の洋風建築)趣があるねー。




この地区で出土した埴輪を多数展示
それぞれ結構大きく、ほぼ完全な形で残っていることに、
皆で「すごいねー」と感嘆。写真はごく一部。見ごたえありです。


本庄宿の展示
 元歴史民俗資料館長の長谷川さんが本庄宿本陣宿帳を翻刻
江戸時代、中山道最大の宿場町として栄えた本庄宿で、大名などが
宿泊、休憩した田村本陣(現在の本庄市中央1丁目)の「休泊控帳」
(宿帳)が、元本庄市立歴史民俗資料館長の長谷川勇さん(62)の
手で翻刻された。
 宿場本陣だった田村家に伝わる27冊の休泊帳を、本庄市史編纂
(へんさん)にも携わった長谷川さんが30年以上かけて読み解き、
「中山道本庄宿田村本陣休泊控帳」としてA4判、4分冊にまとめ
上げた。
 休泊控帳には、寛永19年(1642)から文久3年(1863)
までの222年間の諸大名や家臣、公家、幕府役人などの休泊記録が
記載され、休泊人数や宿泊料金、休泊状況のほか、当時の出来事や世
相を映す覚書のような記述もあり、貴重な史料になっている。
 長谷川さんによると、寛延4年(1751)から宝暦9年(1759)
にかけて、本陣敷地にタカの巣があったことや、姫宮の嫁入りの際の休憩
では、幕府役人が支払いを水増し請求したことなどが分かるという。ほか
にも浅間山の噴火や善光寺地震、大火の記載などもあり、記載項目は
6935に上る。
 長谷川さんは「江戸時代を通して本陣を経営した家そのものが少なく、
休泊帳が残る例は極めてまれだと思う」と話している。
(サンケイウェブより2007/08/03 02:32)

「そうか」
それで、館長か前の館長かが「偉かった」と係りの人が言っていたんだ。
他に、明治、大正、昭和期の展示室もあり。
この資料館は、小じんまりはしているが、展示品の質・内容が良く、
展示の方法も、見る側に立った仕方が感じられた。
小学生達の見学もあるということだが、大人たちも一緒に見学すると
いいなと思った。それにしても、本庄駅の案内図にここが載っていな
いとは、どういうことだ。




安養院
この大屋根のふき替えに、3億5000万かかったと。
屋根左右の鬼瓦の大きさは、それぞれ4畳半あるとか。ヘー。



おじさんが最近彫った作だと。すごいねー。


安養院の中の、「小倉家の墓所」内に、江戸末期の文人碑が林立
加賀千代尼句碑(写真下)、芭蕉画句碑、渡辺崋山書の嵐雪、
其角の句碑など27基。
上の写真のおじさん、
このお寺の専属の石やさんで、事務も執っているンだと。詳しい。
いいガイドさんと会ってよかったねー。ありがと。


門の左右には仁王がにらみを利かせる。





金讃(かなさな)神社
寛永16年(1639)、本庄城主の小笠原忠真が創建、神紋も小笠原氏
の紋。
本庄宿の総鎮守。社殿も立派、彫刻も素晴らしい。大きなクスノキが、
この神社を包み込むようだ。静かな杜、なにか「ホッ」とする。


市内の文化的遺産には、このような石碑に歌を刻んでいる。
市の姿勢が感じられる。




陽雲寺
・武田信玄の奥方の墓や信玄自筆の起請文がある。
(寺名は奥方の陽雲院の名に由来する)
・武田氏は天正10年(1582)、天目山の戦いで織田・徳川軍に攻められて
滅亡するが、武田信玄の甥・信俊は生き延び、その後徳川氏に仕え川窪与
左衛門と名を替えこの地に領地を与えられた。(この辺のいきさつはあと
で調べよう)
養育してくれた叔母で信玄の夫人・陽雲院を呼び寄せ、住まわせた。

絵とか起請文は見られなかった。丁度テレビドラマの関係で、山梨、新潟
に貸し出しているんだそうな。


神流川(かんながわ)を渡り、いよいよ群馬県(上野の国)に入る。


神流川(かんながわ)古戦場跡の碑
・小田原北条軍と信長の家臣で関東管領・滝川一益軍との戦いで、信長が
本能寺で討たれたのを機に始まる。北条軍5万と滝川方の上州軍1万6000の
激戦で、滝川軍は戦死者3760名を出す戦史に残る大激戦であった。・・・
合戦を物語る遺構は皆無に近く・・・


烏川
昔、舟を使っていろいろな物資が江戸と行き来したと。



追分(倉賀野宿の東の入口にある日光例幣使街道と中山道を分ける場所)
○常夜燈
 正面には、日光道、右は中山道と彫られている。
 左に進む日光道が、例幣使街道(※)と呼ばれる。
 (※)正保三年(1646)以来、日光の東照宮に朝廷から幣帛(へいはく)、
 貢物奉納の例幣使を毎年出すのが恒例となり、その例幣使が通る道を日光
 例幣使街道と呼ぶようになった。
    幣帛(へいはく)・・・神に奉献する物の総称
    50~180人になる例幣使一行は、毎年4月1日に京都を出発して、
 中山道を経由して倉賀野から例幣使街道を通り、日光に向かった。
 楡木で壬生街道と合流。
 この常夜燈を建設したのが、五料で旅籠を営んでいた高橋光賢、若い頃
 からの放蕩三昧の罪滅ぼしに常夜燈建設を思い立った。この常夜燈の台石
 には江戸人気力士の雷電為右衛門、柏戸、役者の市川団十郎、松本幸四郎
 などの賛助者の名前が刻まれているそうだ。その数312名。
 光賢は、常夜燈を作り終えた四ヶ月後に亡くなったとか。
○道標(常夜燈の前)
 「これより右江戸道、左日光道」
○閻魔堂(常夜燈の後ろ)


安楽寺

【今回の旅】
・実施日 平成19年(07)9月2日(日)午前10時から午後6時
・天 候 曇り 気温26~28度か、歩くのには絶好の日であった。
     で、予定では倉賀野までであったが、高崎まで足を伸ばした。
     倉賀野の駅前には飲食のできる店がまるっきし無かったこともあるが。
・メンバー4人
・距 離 直線で18Km位 (30,239歩・約21Km)
      公式記録 本庄宿~高崎宿は、21Km。
      今回、3人の万歩計が、大きく違っていることを発見。
・見 所 歴史民俗資料館
      安養院の中の、「小倉家の墓所」
      金讃(かなさな)神社
・驚 き 歴史民俗資料館の中の埴輪
・満足度 結構高いね

【今回の句】
 秋の昼 目線感じる 埴輪群
 金讃の 鎮守の森に 蝉しぐれ
 神流川 川面に秋雲 上野へ

【どこまで来たか?】
・宿  :六十九次中、13番目(高崎宿)
・距 離:534Km中、108.5Km(単純に6回で割ると1回平均18Km)

【次回予定】高崎宿から板鼻宿を通り安中宿へ

高崎 広重画
遠景の山は榛名山、正面の川は烏川


板鼻 英泉画


案中 広重画




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