地遊人

日常のことごと、出来事を、気ままに書き記していく。
62歳からの自己整理・自己満足策とボケ防止挑戦プログ。

力作「北国街道二十二宿」完成!!

2011年09月12日 |   街道を歩く②北国街道


11-9-12 A氏の力作「北国街道二十二宿」が完成した。「中山道の旅(全6巻)」に次ぐ、第二弾の力作だ。思い出がいっぱい詰まった、汗をかかなければ出来ない、貴重な作品だと思う。A家における家宝がまた増えた。

       

                 

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「北国街道」(別名善光寺街道)二十一宿を歩く⑤最終回

2011年05月25日 |   街道を歩く②北国街道



五智国分寺三重塔 欄間彫刻  見事。

北国街道歩き(最終回) 日本海に向け、北へ北へ

 第一日目(平成23年5月22日) 関山宿から二本木宿へ

 

【残雪の妙高山】 
やや冷たい風が、歩くのに心地よい。標高2,454m、越後富士とも呼ばれる。深田久弥の「日本百名山」の一つ。山麓の大斜面はわが国の最も古いスキー場といわれる。

【関山神社】 
新緑の中の、静かな神社妙高山の里宮として1818年に建立された。社殿は総ケヤキの権現造り。金比羅さんや弁財天、亀石や座禅石がある。毎年7月に開催される火祭りは、1200年の伝統を守り受け継がれている。

        

 山の天気は変わりやすい。時々、冷たい風が吹き下りてくる。

 ◎二本木宿 松田旅館に宿泊

第二日目(5月23日) 二本木宿から高田宿(北国街道終点)へ

 【賀茂神社】

賀茂神社の創建等の詳細は良く分からないそうだ。ただ、周囲の産土神らしい。銅板で囲われた鳥居や多くの石灯篭は信仰の広さや篤さを示す目安になるので格式の高い神社か。街道沿いに鎮座しているので多くの旅人などにも参拝があったのではないか。

 【照光寺】
住職夫人によれば、明治の新井大火で寺の大半が焼けてしまい、残ったのは欄間の彫刻(言い伝えによれば、左甚五郎作とか)と鐘つき堂のみとか。  

       

       

 

【東本願寺新井別院】

頸南地方の末門や門徒を支配統轄するために創設された別院は貞享2年(西暦1685年)の開基。境内には親鸞聖人ゆかりの恵信尼の御堂や新井出身の画家・森蘭斎の墓もある。毎年11月には「おたや」が開かれ、賑わいをみせている。

◎高田宿 大手屋旅館に宿泊

【高田城】

徳川家康の六男、松平忠輝の居城として天下普請によって造られた。城地の縄張りと工事の総監督は忠輝の舅の伊達政宗である。

高田城は、高田平野にある菩提ヶ原に築かれた平城である。約230メートルから約220メートル四方の本丸を取り巻くように二ノ丸、南に三ノ丸、北に北の丸を配し、関川青田川などを外堀として利用した。すべての曲輪土塁が採用され、石垣は築かれなかった。低湿地に築城されたため排水設備が重視され、城地には現在の技術水準から見ても遜色ない暗渠が張り巡らされていた。天守はなく、1614年に3重3階の三階櫓を建てて天守の代用とした。当時の三階櫓の外観は不明で、江戸城の富士見櫓に似た外観であったと伝えられている。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E7%94%B0%E5%9F%8E

桜で有名な高田城。東北大震災がなければ・・・と思ったが、新緑の高田城もまたいい。

    

     

第三日目(5月24日) 高田宿より、日本海・直江津へ

 

【高田の雁木】

大雪の時の生活通路として作られた雁木は、アーケードなどと違って、通路も軒も家々の所有で、各戸で設置・維持される。江戸時代初めに最初の雁木が造られて以来、時には3メートル以上の雪が積もる豪雪地・高田では、雁木も延びていった。

上越市の2000年の調査では、高田の雁木通りの総延長は約16キロ・メートル。市全体では約18キロに及ぶという。

【鉄梯子】備え付けの雪下ろし用の鉄梯子。垂直過ぎて怖いよなー。毎年事故が多く起こるそうだ。

 【春日山神社】

山形県米沢市の上杉神社より分霊され、謙信公を祭神に祀った神社。明治23(1890)年に、童話作家・小川未明の父小川晴明によって創建された。

 【林泉寺】

上杉謙信の曾祖父長尾重景が、名僧雲英恵禅師を開山として創建。上杉氏後の越後領主堀氏、高田城主松平・榊原氏の菩提所

   林泉寺山門

 

 

      

 【五智国分寺】 三重塔

天平年間(729~749)に創設された越後の国分寺。1562年(永禄5)上杉謙信の再興と伝わる。1856年(安政3)建立で、高さ25mの三重塔には十二支の彫刻が施され、伽藍は未完ながら県の文化財に指定。本堂は焼失したが、平成9年に再建された。境内には親鸞聖人が流罪生活を送った竹之内草庵があり、自作の等身大の木像が安置されている。

 

 

【直江津 居多ヶ浜】

1207年、越後国に流された親鸞は直江津居多ヶ浜に上陸したんだと。この直江津は信州の小学生が6年生の修学旅行で、初めて海を見る浜でもあった。テレビがない時代、初めて見る海に皆感動したものだ。その時と同じように海水を少し舐めてみた。

 第5回目の旅(最終回)を終えて

・歩いた距離
   5月22日(日) 12,871歩   9,07Km
   5日23日(月) 31,370歩  21,96Km  早朝散歩3,867歩 2,60Km
   5日24日(火) 18,164歩  12,71Km  早朝散歩5,083歩 3,56Km

・良かったところ
   妙高山 
   新緑・大自然
   歩きやすい天気、気温

   高田本町通りの司寿司(大手屋旅館の紹介)と大手屋旅館の朝食

次回は、来春、桜咲く季節、

 「日本横断(尾張・信濃・越後)・塩の道」に挑戦できるか?じっくり検討。   

 

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「北国街道」(別名善光寺街道)二十一宿を歩く④

2010年10月06日 |   街道を歩く②北国街道

10-10-5 野尻湖 朝、霧と雲間から差し込む陽の光が幻想的だ。

北国街道第4回目、越後に向け、北へ北へ

【第一日目】善光寺宿から新町宿へ



【西光寺】
その名も「北石堂町」の右手に西光寺がある。石堂丸の物語等の絵解きで有名なお寺だ。石堂丸の物語とは、概ね次のようなものだ。九州筑前国司加藤重氏(博多には「繁氏」とあった。)は世の無常を感じて比叡山を経て、京都黒谷の法然上人のもとへ出家する。しかし、妻子が尋ね来ることを嫌い高野山に向かう。やがてその子、石堂丸は母子で父を求め旅に出るが、高野山の麓で母は病に倒れ亡くなってしまう。ひとりになった石堂丸は父の刈萱(かるかや)上人と出会うが、父は父と名乗らず「探す方はすでに世にいない。」と教えられる。世をはかなんだ石堂丸は弟子入りを迫り、許されるが、修行の邪魔になると、刈萱上人は再び一人旅立ち、善光寺如来に導かれ、ここに草庵を開いた。それがここ西光寺の始まりだ。刈萱上人は、この地で亡くなるが、後を慕って来た石堂丸もこの地で入寂、父子の墓がある。本尊の苅萱親子地蔵は、刈萱上人とその子である石堂丸が刻んだと伝えられる。
         花の世ハ仏の身さへおや子哉 (一茶)








【秋葉神社】
幕末の名工、立川和四郎富昌により造られた十念寺境内の秋葉社。「踏み下げの獅子」など、唐獅子彫刻が得意。


【北野文芸座】歌舞伎公演が行える本格的な劇場。こけら落としは人間国宝、尾上梅幸丈を招いたと。





【善光寺・仁王門】
仁王門は、大正7年再建、仁王像は高村光雲と米原雲海の合作だそうだ。




【びんずる尊者】
本堂正面から外陣に入ると最初に目にとまる像が、びんずる(賓頭廬)尊者。お釈迦様の弟子、十六羅漢の一人で、神通力(超能力に似た力)が大変強い方で、俗に「撫仏」といわれ、病人が自らの患部と同じところを触れることでその神通力にあやかり治していただくという信仰がある。


【善光寺・本堂】
本堂は、国宝。重厚な建物だ。本堂の南西の柱にズレがあり、ポスターにも使われている。地震柱といわれているそうだが、木の乾燥によるねじれが原因とか。




【吉田神社】
吉田に入り、左手に「皇足穂吉田大御神宮」がある。境内右手に六十八州の延喜の頃の一の宮の石祠がずらりと並んで、壮観だ。「雲折ゝ人を休むる月見か那 芭蕉翁」と刻んだ芭蕉の句碑もある


JR信越線さんさい駅、第一日目の終了地点。

【第二日目】新町宿から牟礼宿、柏原宿へ



どっちの道を行こうか?





牟礼宿(むれ:12番目の宿場)
加賀と江戸の中間地点にあたる宿。加賀の大名、前田侯は、参勤交代の道程の半分が無事終わったことを、牟礼宿から江戸と金沢へそれぞれ飛脚を立てて知らせたという。






【善敬寺】




【證念寺】雨宿りと休憩。和尚さんが、「雨の中大変ですねー」っと。「軒をお借りしています!」


りんご 今年の味はどうか?


【十王坂?】坂を登り切ったところに閻魔王など十王を祀る十王堂がある。


【そば畑】
黒姫高原は、昼と夜の気温の差が激しく夏でも霧に覆われた状態になる。これが、そばには好条件になり、味も香りも色も優れた霧下そば粉が生み出されるという。


【小玉坂】碓氷峠に並ぶ難所?「美しい日本の歩きたくなる道五百選」に認証。


【落影集落入り口】旧街道の面影が残る。
         花の陰あかの他人はなかりけり(一茶)
      

【一茶旧宅】 
         門の木も先つゝがなし夕涼 (一茶)
         痩がへるまけるな一茶是に有(一茶)
         ふしぎ也生た家でけふの月 (一茶)


泊まり 藤野屋旅館 黒姫駅近く
(TEL:026-255-2065 創業明治43年の100年旅館、登録有形文化財)


【一茶旧宅】(小丸山公園内)
        是がまあつひの栖か雪五尺(一茶)
        雀の子そこのけ ~ 御馬が通る(一茶)



【黒姫駅】柏原駅を改名。(昭和43年)
        蟻の道雲の峰よりつゞきけん(一茶)
        やれうつな蝿が手をすり足をする (一茶)

【第三日目】柏原宿から、野尻宿、関川宿へ

【明専寺】3歳で母を亡くした一茶は、小林家の菩提寺で一人遊びすることもあった。
        我と来て遊べや親のない雀 (一茶)


野尻宿(14番目の宿場)
佐渡の金荷が、出雲崎を出発して三日目に泊まる宿。寺に金蔵を設けていたという。
野尻湖はナウマンゾウの化石発掘地として、全国的に注目されている。


【野尻湖】深さ平均21mで、諏訪湖より小さいが貯水量は長野県一だと。揚水発電日本初。
        しづかさや湖水の底の雲のみね(一茶)
        湖ニ尻を吹かせて蝉の鳴 (一茶)
        日ぐらしや急に明るき湖の方 (一茶)
【野尻湖ナウマンゾウ博物館】
【琵琶島】
琵琶島城主宇佐美定行は、上杉謙信の姉婿長尾政景に謀反ありと、野尻湖に誘い出し共に湖底に沈んだ説話「信府統記」
中村勘(明治末。作家・詩人「島守」)


スノーシェードを歩く。

関川の関所、ここから越後の国だ。





【関川関所】【道の歴史情報館】
口止め番所から、幕府の指示により高田藩が管轄する関所に変わり、全国にある五十三関のうち、重き関所二十五関の一つとなった。


【妙高山】
妙高山(みょうこうさん)は新潟県南西部の妙高市に位置する標高2454mの成層火山。日本百名山のひとつ。


【大田切清水】
妙高大橋の下に流れ出る、県の名水百選にも選ばれた有名な水。谷が深い大田切川は、古くから交通の難所で、曲がりくねった道では、今でも事故が多いらしい。注ぎ口に馬頭観音を祀っているのは、道中の安全を祈願してのこと。交通安全祈願に訪れる人も多いようだ。






【スキー神社】日本唯一のスキー神社。荒れていたが、傾いだお賽銭箱にお賽銭を。

第4回目の旅を終えて。
・歩いた距離
  10月3日(日) 18,766歩  13,14Km
  10日4日(月) 29,743歩  20,82Km
  10日5日(火) 35,667歩  24,97Km

・良かったところ
 善光寺
 野尻湖
 一茶の故郷柏原
 大自然

・食べもの
 十割そば「大善」(善光寺表参道、地粉霧下そば)、夜の「花盛」での食事
 地酒(2日間とも美味かった)
 
・思い出
 3日目は少し歩き過ぎ。この夏の暑さで、足の鍛錬不足か。

次回(最終回)は、来年、桜の咲く頃。関川宿~二本木・松崎宿~新井宿から高田宿まで。

 桜と日本海を眺めながら、美味い酒を飲みたい、と思う。
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「北国街道」(別名善光寺街道)二十一宿を歩く③

2010年07月01日 |   街道を歩く②北国街道
 戸隠奥社参道にて

祈りが届いたか、雨降らず、今回の北国街道徒歩(かち)の旅は順調!!
だが連日蒸暑い日だったなー

【第一日目】10-6-27 下戸倉宿~矢代宿~松代宿へ




【松代城跡】
  戦国時代、武田信玄が上杉謙信の攻撃に備え、山本勘助に命じて築城。千曲川のほとりという自然
の地形を生かした天然要塞。
江戸時代に真田信之が上田城から松代藩主として移った後は、真田氏10代が城主としてこの地を治め、
10万石の城下町を形成した。平成16年に大規模な修復・復元工事が完了。



【文武学校】
 9代藩主真田幸教が1855(安政2)年に開校した学校。松代藩が藩士の子弟たちに文武両道を教育する
のに使われた。




【象山神社】
松代が生んだ幕末の思想家、佐久間象山を祭った神社。象山が生まれてから29年間を過ごした佐久間
象山宅跡、吉田松陰の密航事件に連座の後、蟄居[ちっきょ]の身となった象山が客間・書斎として使
用していた高義亭[こうぎてい]、9年の蟄居の後、京に上って構えた家の茶室を移築した煙雨[えんう]
亭が境内に立つ。


一日目の宿泊は、民宿六文銭。食事は昔のままという感じ。84歳のおばあさんが頑張っていた。
地下壕にまつわるいろんな話をしてくれた。


【二日目】10-6-28 松代宿~矢代宿に戻り、篠ノ井追分宿へ


【大英寺】
 松代藩初代藩主・信之の妻・小松姫(本多忠勝の娘、徳川家康の養女)の菩提寺。上田の大英寺
(現芳泉寺)にまつられていたのを信之が上田から移封された際、ここに移したと伝えられ、現在の
本堂はもとは御霊屋。万年堂とも呼ばれている。


長国寺入口






【長国寺】
 松代藩主真田家の菩提寺で、屋根に真田氏の家紋のひとつである六文銭が見える。歴代藩主の墓の
ほか、信之、信弘の御霊屋がある。信之の御霊屋は重要文化財で、破風の鶴は左甚五郎の彫刻と伝
えられ、夜な夜な破風を抜け出し稲を食い荒らしたという伝説が残っている。
また格天井の絵は狩野幽筆の作といわれている。




長国寺
住職の奥さんか?毎朝九つ鐘をつくという。丁度4つ残っているので、ということでご指導のもと、
ひとり一回つかせて貰ったのだ。
早朝7時頃、散歩時のちょっといい話。ついた数を忘れないように一回ついたら石をずらすのだ。


【象山地下壕】
 第2次世界大戦の末期、本土決戦最後の拠点として大本営、政府各省等を松代に移すという軍部の極秘計画
のもとに構築した地下壕。着工は昭和19年11月から翌年8月15日の終戦まで約9ヶ月の間に当時のお金で
約2億円の巨費と延べ300万人の住民および朝鮮の人々が労働者として強制的に動員され、過酷な条件下で
多くの犠牲者を出したと言われる。西条口(恵明寺口)から500mの区間を見学できるようになっている。




象山地下壕
強制労働下の犠牲者について、今なおベールに包まれていることが多いという。

詳しいことは。
 http://hide20.blog.ocn.ne.jp/mokei/2008/08/post_9ff3.html


山寺常山邸


【山寺常山邸】
 山寺家は石高160石の中級武士の家柄で代々松代藩に仕え、幕末には鎌原桐山と佐久間象山とと
もに松代の三山と称される山寺常山を輩出しています。常山は8代藩主真田幸貫からの信任を得、
寺社奉行、郡奉行などの要職を歴任し明治維新後は人材育成に力を入れ大きな影響を与えた。


真田宝物館

【真田宝物館】
 旧松代藩主真田家から寄贈された家宝の武具、調度品、文書、美術品などを所蔵。重要文化財の
「青江の大太刀」、豊臣秀吉・石田三成・徳川家康・武田信玄らの書状など、大名家ならではの興味
深い史料が多数展示されている。


真田邸表門


松代名所案内


松代駅ホームにて

【三日目】丹波島宿~善光寺宿、寄り道で「戸隠神社・奥社」へお参り


篠ノ井橋 下を流れるは千曲川だ。梅雨雲の合間に少し青空が。


丹波島橋より犀川を見る。
川中島古戦場は犀川と千曲川の扇状地にあるが、北国街道から結構外れているので、寄らなかった。




善光寺常夜燈

予定を変更、バスで約1時間、戸隠神社へ、

【戸隠神社】
戸隠神社は霊山・戸隠山の麓に、奥社・中社・宝光社・九頭龍社・火之御子社の五社からなる、創建
以来二千年余りに及ぶ歴史を刻む神社。
その起こりは遠い神世の昔、「天の岩戸」が飛来し、現在の姿になったといわれる戸隠山を中心に発
達し、祭神は、「天の岩戸開きの神事」に功績のあった神々をお祀りしている。
平安時代末は修験道の道場として都にまで知られた霊場。神仏混淆のころは戸隠山顕光寺と称し、
当時は「戸隠十三谷三千坊」と呼ばれ、比叡山、高野山と共に「三千坊三山」と言われるほどに栄えた。
江戸時代には徳川家康の手厚い保護を受け、一千石の朱印状を賜り、東叡山寛永寺の末寺となり、
農業、水の神としての性格が強まってた。山中は門前町として整備され、奥社参道に現在もその威厳
を伝える杉並木も植えられ、広く信仰を集めた。
明治になって戸隠は神仏分離の対象になり、寺は切り離され、宗僧は還俗して神官となり、戸隠神社と
名前を変えて現在に至る。


戸隠奥社参道口




参道中頃の隋神門









【奥社】
祭神 天手力雄命(あめのたぢからおのみこと)
由緒・ご神徳
日本神話にある、天照大神が天の岩屋にお隠れになった時、無双の神力をもって、天の岩戸をお開きに
なった天手力雄命を戸隠山の麓に奉斎した事に始まります。
戸隠神社の御本社として全国に開運、心願成就、五穀豊熟などの御神徳が広宣され多くの崇敬者が登
拝されます。
参道は約半里(2キロ)、中程には萱葺きの赤い随神門があり、その先は天然記念物にも指定されている
樹齢約400年を超える杉並木が続いています。
 「中山道15(加納宿)参照」
【手力雄(たぢからお)神社】貞観2年(860)創建
  祭神は、日本神話で天照大神が隠れた天の岩屋の岩戸を開けた怪力無双の手力雄。その岩戸を取っ
て遠くへ投げた時、一方の戸は九州宮崎県の高千穂町(天岩戸神社)へ、もう一方の戸が信濃国の戸隠へ。
ちなみにその岩戸が山となり、戸隠山と呼ばれるようになったとさ。


【九頭龍社】

【戸隠山(1904m)】小雨が降りだして、もやが立ち上り何か幻想的な風景になってきた。

第3回目の旅を終えて。
・歩いた距離
  27日(日) 10,619歩  7,43Km
  28日(月) 28,522歩 19,97Km
  29日(火) 18,289歩 12,80Km

・良かったところ
 松代宿(象山地下壕、長国寺)
 戸隠神社奥社

・食べもの
 昼は全てそばでみなよかった。
 矢代宿でのくじらの料理
 ルートインの朝飯

・思い出
 長国寺での早朝の鐘つき(音色はどうだったか?)

次回第4回目は9月、初秋の北国街道、野尻湖を目指す!!
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「北国街道」(別名善光寺街道)二十一宿を歩く②

2010年05月27日 |   街道を歩く②北国街道
雨、雨、雨、
     田中宿から下戸倉宿へ


それにしても、今回の旅は雨と風にやられた。が、それも旅。

【第一日目】10-5-23 田中宿から上田宿へ


田中宿の「蔵の坊の」十割そばで腹ごしらえ。




【白鳥神社】
この神社は古代天皇の命を奉じて東征の途についた日本武尊(やまとたけるのみこと)がこの地に滞在され
たことから白鳥神社と稱し、古代から中世の豪族、海野氏の祖と云われる貞元親王・善淵王・海野広道公
を祭神としている






【海野宿の町並み】
日本の道百選、伝統的建造物群保存地区に指定されている。うだつが目立つ。
うだつの種類・・・袖うだつと本うだつ










【信濃国分寺 三重塔】
奈良時代、上田の地に建立された信濃国分寺。承平の乱で焼失したといわれているが、室町時代に今の
場所へ再建された。境内にある三重塔は、現存する国分寺の塔の中で最も古いもので、国の重要文化財
に指定されている。


上田宿:A氏推薦の「かぶらや(鶏鴨料理)」で、鳥の寿司を頂く。
鶏肉と思わせない結構な美味さで、写真を撮るのが遅れてしまった。


【第二日目】10-5-24 別所方面に立ち寄り




【生島足島(いくしまたるしま)神社】
生島神、足島神の二神。ご神体は大地。
武田信玄の“戦勝願状と社領安堵状”や真田昌幸をはじめとした願文・朱印状十一通と、部下の武将たち
に忠誠を誓った“起請文”八十三通、計九十四通の古文書が残されており、国の重要文化財に指定されて
いる。


【別所温泉駅(上田電鉄)】 大正12年建設だと。洒落ている建物だ。




【安楽寺】信州の学海の中心として栄えた信州最古の禅寺。






【常楽寺 石造多宝塔】
別所温泉・北向観音の本坊。鎌倉時代には天文数学の道場として栄えた。境内には国の重要文化財に
指定されている石造多宝塔と、平維茂の塚がある。


【北向観音堂】
厄除観音として昔から信仰を集め、長野市善光寺と向かい合うように本堂が北を向いている事から北向
観音と呼ばれるようになった。善光寺と合せてお参りするとさらにご利益があるといわれている。
二年参りや節分には多くの善男善女で賑わう。境内には「愛染かつら」の大樹や多くの歌碑がある。


大師湯:入湯料150円。さっぱりした。


上田に戻り、H氏推薦の日昌亭で焼きそば、チャーハン、ラーメンを頂く。食べ過ぎの感じ。
いつも客が列をなすほどの繁盛店だという。


【北国街道 柳町】
旧北国街道沿いの家並みが残る通り。柳の木が多かったこの通りに旅籠屋や商家が軒を連ね、呉服屋
だけでも25軒あったという。
面影を残す街並みは白い土塀に格子戸のある家、古道具屋、杉玉のある造り酒屋などがある。




【上田城】 
上田城は、天正11年(1583年)真田昌幸公が築城。徳川軍の攻撃を2度にわたって退けた名城。
かつての戦場は桜の名所となり、現在は多くの観光客で賑わっている。


【芳泉寺】
浄土宗。開創当時は常福寺と称し、真田信之の菩提寺。信之の正室小松姫の墓がある。
信之の後に上田城主となった仙石忠政が小諸の宝仙寺をここに移し、円覚院芳泉寺した。

【第三日目】10-5-25 上田宿から下戸倉宿へ


【村上義清の墓】




坂城神社










【満泉寺(村上義清の居館跡)】(修繕中につき、中に入れず。)
満泉寺(村上義清の居館跡)の本尊「石造釈迦如来坐像(県宝)」は安山岩で作られた仏様。
円満な容姿と彫刻が美しく、鎌倉時代後期の製作と見られ、戦国の動乱をくぐり抜けて今に伝えられた。
石造の本尊は満泉寺が県内唯一。


【ふるさと歴史館】


【下の酒屋】
坂井醸造店 志賀直哉の小説「豊年虫」にも、「造り酒屋」萱乃庵(かやのいおり)で紹介されている。
四百年の歴史を持つ作り酒屋で、母屋の一部は蕎麦処「萱」(かや)として、信州蕎麦と銘酒「雲山」
が味わえる。資料館として開放。

第2回目の旅を終えて。
・歩いた距離
  23日(日)18,072歩 12,65Km
  24日(月)24,124歩 16,89Km
  25日(火)24,371歩 17,06Km
 
・良かったところ
 海野宿の風情
 信濃国分寺
 生島足島神社
 大師湯など

・食べもの(今回の旅で食べものの失敗はなし。食べ過ぎた。)
 蔵の坊の十割そば
 かぶらやの鳥寿司
 日昌亭で焼きそば、チャーハン
 萱の十割そば


次回は6月27、28、29日

篠ノ井追分宿、松代宿、丹波島宿、善光寺宿から戸隠へ寄り道
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「北国街道」(別名善光寺街道)二十一宿を歩く①

2010年04月21日 |   街道を歩く②北国街道
歴史の街道歩き第2回目  
      信州追分宿より 北国街道を歩き始める!!

北国街道は、中山道と北陸道(北陸街道)を結ぶ街道で、信濃の追分宿から越後の高田宿まで約35里
(約140km)の道だ。加賀藩をはじめとする北陸諸藩の参勤交代の道であり、また、佐渡金山で産出した
金を運ぶ道としても重要視された街道である。
また、長野の善光寺参拝を目指す旅人が多かったことから善光寺街道の名もある。

北国街道の行程は、中山道の追分宿から分かれ、小諸宿、田中宿、海野(うんの)宿、上田宿、坂木宿、
戸倉(とぐら)宿、矢代宿、丹波島(たんばじま)宿、善光寺宿、新町(あらまち)宿、牟礼宿、古間宿、柏原
(かしわばら)宿、野尻宿を経て越後国に入り、関川宿を経て、高田宿で北陸道と連絡していた。

平成17年11月、中山道歩きの途中、追分の「分去れ」に立って、

   さらしなは右 みよしのは左にて 月と花とを追分の宿

という道しるべ石を見た。
今回は右の道すなわち北国街道を歩こうということになった。
中山道の旅と同じように、また、素晴らしい旅を期待し、分去れ(わかされ)を出発した。



【第1日目】10-4-19 追分から小諸宿へ
分去れ


そば処 追分せんにて。結構美味かった。ビールも。

【追分宿】江戸時代、軽井沢宿、沓掛宿、追分宿は“浅間根腰の三宿”として知られた。なかでも追分宿
はもっともにぎわいを見せ、貞享年間には旅籠71、茶屋18を数えたという。

■朝9時過ぎ池袋発の高速バスは、予定より少し早く12時前に目的地の追分に到着した。列車で来るH
氏と追分宿郷土館にて待ち合わせ。歩くには丁度いい気温で気持ちよく歩きだした。中山道を歩いた時
にはなかった分去れ近くの「そば処せん」にて、ビールとそば。出発祝いを。


浅間山 2542m 日本百名山の一つ。
■2~3日前東京にも雪が降った日、こちらでは20cm位積もったらしい。41年ぶりの遅い雪。その時の雪か、
浅間山はいつもの年に比べ、雪が多く残っている。
 吹飛ばす石も浅間の野分かな(芭蕉)  
北国街道の道の標識、表示が無いので、大きく道を外れて歩いていたみたいだ。雄大な浅間山を右手に眺
めながら、のんびり畑の道をあるいた。2~3日前だったら寒くてこうは行かなかったろう。
それにしても小諸は遠かった。






揚羽屋(一ぜんめし)
■島崎藤村がよく利用したという小諸の揚羽屋(一ぜんめし)で夕食。「千曲川のスケッチ」に出てくる。
平日だからなのか客は我々だけだった。店の照明は少し薄暗く、それが何となくいい雰囲気でユックリできた。
一ぜんめし定食は、豆腐揚げ、揚げ出し豆腐、おから、コイのあらいが付いた。初日なので、少し豪勢にという
ことで馬刺しなども注文。名前は忘れたが辛口の地酒の熱燗も良かった。思ったより安く上がった。
身内でやっているという駅前のビジネスホテルも、値段の割には良かった。

【第2日目】10-4-20 小諸宿から布引観音を経由し、田中宿へ


山吹味噌 小諸出身の画家 小山敬三氏の実家とか。
■明け方雨がぱらついたが、上がったので「ホッ」。昨日教えてもらった駅前の喫茶店は、8時になっても開か
ないので、仕方なく立ち食いそば。駅から降りる大勢の高校生たちと北に向って歩き、北国街道に出る。






海応院
■院内は静かで、綺麗に清掃されていて気持ちが良かった。樹齢370年の「潜龍の松」が見事。
「コモロスミレ」はまだ咲いていなかった。




光岳寺




小諸宿本陣


大手門(重文)




三の門(重文・懐古園入り口)

懐古園
・小諸城
木曽義仲の武将小室太郎光兼が現城址の東側に館を築いたのが起こり。大井光忠が小室氏の勢力を
抑えて鍋蓋(なべふた)城を築き、その子光為がさらに出城として乙女坂城、別名白鶴城(二の丸跡)を
構えたが、武田信玄の攻略により落城、信玄が山本勘助と馬場美濃守信房に命じて築城したのが、
現在の小諸城址で酔月城とも呼ばれている。
豊臣秀吉の時代から関が原の合戦後にかけて千石秀久が城主となり、その子忠政とともに小諸城と
小諸城下町を完成させた。
・三の門
・微古館
・藤村記念館


黒門橋



小諸なる古城のほとり  島崎藤村

小諸なる古城のほとり 雲白く遊子悲しむ
緑なす繁蔞(はこべ)は萌えず 若草も籍(し)くによしなし
しろがねの衾(ふすま)の岡辺(おかべ) 日に溶けて淡雪流る

あたたかき光はあれど 野に満つる香(かおり)も知らず
浅くのみ春は霞みて 麦の色わずかに青し
旅人の群はいくつか 畠中の道を急ぎぬ

暮行けば浅間も見えず 歌哀し佐久の草笛(歌哀し)
千曲川いざよう波の 岸近き宿にのぼりつ
濁(にご)り酒濁れる飲みて 草枕しばし慰む




【小山敬三美術館】


小山敬三画伯(小諸市出身)1972年に制作した「浅間山残雪」


■懐古園の中では、この美術館脇より見る風景が一番良かった。
展望台があるところは、藤村の時代には当然無かったであろうダムが、千曲川の景観を台無しにしていて、
「だいたいあのダムは何のために作ったんだろう」などと文句をいいたくなってしまう。


■北国街道をはずれ布引観音にお参り。厳しい坂を20分登らなくてはいけない。こちらからの道は、年配者は
無理ではないか。山の向こうは望月の駒の御牧ヶ原だということだ。










■厳しい坂を上りきったところに観音堂があった。ここからの風景は、今回の旅で一番だ。
【布引観音】
「牛にひかれて善光寺参り」の伝説の舞台となった寺としても有名


■現在の田中宿。電柱を埋設したので、空が広い。

■小雨の中の行軍で全員少々疲れ気味。予定を切り上げ今回はここまでとした。
しなの鉄道で軽井沢に戻り、バスで池袋へ。

第一回目の旅を終えて。
・歩いた距離
 1日目 24,613歩(17.23Km)
 2日目 31,696歩(22,19Km)

・想定外
 布引観音堂までの厳しい登り
 北国街道の道案内の無さ
 思った以上の歩きのきつさ 
 しょぼつく雨

・良かったこと、助かったこと
 小諸懐古園のほぼ満開のさくら、街道の桜、花々
 食事とお酒
 滋野駅近くの「道の駅」での食事と休憩

次回は5月23、24、25。新緑の信州路へ

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歴史の街道徒歩(かち)の旅 第2弾は「北国街道」

2010年03月17日 |   街道を歩く②北国街道

四人旅、桜満開のとき、信州追分をスタート、越後高田を目指す。
  祈りの道、金の道 北国街道の「むかし」と「いま」を歩いてたどる。

北国街道は、中山道と北陸道(北陸街道)を結ぶ街道で、信濃の追分宿から越後の高田宿まで
約35里(約140km)の道だ。加賀藩をはじめとする北陸諸藩の参勤交代の道であり、また、佐渡
金山で産出した金を運ぶ道としても重要視された街道である。また、長野の善光寺参拝を目指す
旅人が多かったことから善光寺街道の名もある。
北国街道の行程は、中山道の追分宿から分かれ、小諸宿、田中宿、海野(うんの)宿、上田宿、
坂木宿、戸倉(とぐら)宿、矢代宿、丹波島(たんばじま)宿、善光寺宿、新町(あらまち)宿、牟礼
宿、古間宿、柏原(かしわばら)宿、野尻宿を経て越後国に入り、関川宿を経て、高田宿で北陸道
と連絡していた。
平成17年11月、中山道歩きの時、追分の「分去れ」に立って、
     「さらしなは右 みよしのは左にて月と花とを追分の宿」
という道しるべ石を見た。今回は右の道すなわち北国街道を歩こうということになった。
中山道の旅と同じように、また、「四人旅」は始まる。素晴らしい旅になることを祈りたい。
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「参勤交代道中記」を読む

2009年11月17日 |   街道を歩く②北国街道

09-11-16
参勤交代道中記ー加賀藩資料を読むー(忠田敏男・平凡社)

前田家の参勤交代は、190回、金沢と江戸の間を移動した。
この内、181回、北陸下街道(善光寺街道~中山道)を利用したそうだ。


2000人もの大名行列は
宿場の予約をどのように行ったか 
橋のない川をどうやって渡ったか 
総費用はいくらかかったか?大変なことだ。

【商品レビュー】
第1章 参勤交代制度の概要
第2章 参勤交代の季節
第3章 大名行列の人数
第4章 大名行列の編成
第5章 参勤交代の通る街道
第6章 大名行列と宿場町
第7章 大名行列の諸費用
第8章 参勤交代と藩財政

【要旨】
幕藩体制の中核をなす参勤交代。諸大名にとって厄介な制度ではあったものの、しかし一方で、
街道の宿場を経済的に潤し、文化伝達の役目も果たしていた。江戸随一の雄藩・加賀藩は、
いかにして参勤交代に臨んだのか。その実情を克明に描き出す。


峠越えをする大名行列(金沢市立図書館)


川越風景(金沢市立図書館)


神通川の常設の船橋(富山市売薬資料館)

【メモ】
・雨具のこと(合羽を持つ人80人)
・矢代宿の大火(戦陣の隊形へ)
・藩主の御歩行(田中、海野、上田)
・佐渡のご用金(北陸下街道)
・江戸までの所要日数
 (大人は普通、一日10里から12里は歩いたんだと。何でこんなに健脚だったんだろう?)
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前田家の参勤交代の道

2009年11月13日 |   街道を歩く②北国街道

09-11-13
■前田家の参勤交代は、190回、金沢と江戸の間を移動した。この内、181回が北陸下街道を利用し、
福井回りの東海道4回、中山道が5回だったそうだ。

「金沢→越中→越後→信濃→上野→武蔵→江戸」という路順が一般的。約120里の行程で、順調にゆ
けば12泊13日。途中、倶利伽羅峠や越後の親不知などの難所があった。

道中では当然ながら、他の大名家の領内を通るわけで、使者を派遣し、贈り物をしたりして気を遣った。
また通られる側も、道路の掃除や橋の整備などを行ったそうな。

 行列の人数は5代藩主綱紀の時で4000人。それ以降は2500~3500人。ちなみに10万石程度の
大名なら300人くらい。1万石クラスでは約50人だそうだ。
 一回の道中に要する費用は、百万石の前田家では、13日間の宿泊費、他に川越賃、手間賃、労賃、
雑費。通過路の各大名家への挨拶に要する費用。大きいのが将軍や、老中、御側用人などへの贈答品
だった。北国下街道を使うとして費用総額は銀約332貫(文化・文政期で)。金に換算すると約5540両。
米価で現代の4億余円(労賃では約7億円)になるそうだ。

これら参勤交代にまつわる紀行文や旅日誌でもあれば面白いと思うのだが。
で、ネットで調べたら、「参勤交代道中記 加賀藩史料を読む」(700円)という本を発見したので注文した。

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「信州佐久平みち」を読む

2009年07月02日 |   街道を歩く②北国街道

09-7-2
雨は多いし、テレビはつまらないしで時間が出来る。
テレビは何であんなにつまらなくなってしまったか、見たいと思う番組がどんどん無くなって
来て、今はほとんど無い。
結構の部分を占める、「お笑いの連中」にもほとんど「笑い」が感じられない。
もしかして、テレビの無い世界の方が、まともな世の中になるかも知れない。
作り手に、夢、情熱、想像力や感性が無くなってしまっている。可愛そうに思える。

「街道をゆく9」を買って(735円)、「信州佐久平みち」の部分を読んだ。
図書館で読んだことはあるが、改めてじっくり読みたくなったのだ。
・しなの木と坂
・上田の六文銭
・捨聖一遍
・山寺の中の浮世絵
・千曲川点景
・小波だつ川瀬
・延喜式の御牧
・望月の御牧
 
その土地の歴史、成り立ちなど、「なるほど」と、勉強になる。

「山寺の中の浮世絵」は別所温泉の話。母の出が塩田の保屋というところで別所温泉に近く、
小さい頃、何回か訪れたことはある。また、10年くらい前か、花屋に泊まったことを思い出す。

「小波だつ川瀬」は小諸の話。懐古園前で入った食堂での無愛想な女性従業員の話は思わ
ず笑ってしまった。「あるよなー、そういうこと」と。「気の鎮め方」が参考になる、が。
 「小諸なる古城のほとり 雲白く遊子悲しむ」という島崎藤村の詩さえなければ、小諸城跡は
いまも閑(しず)かだったであろう。こういう騒音もなければ、残忍な客あしらいもなく、テーブル
の上の器物の狼藉もなかったにちがいない。・・・・食堂を出ると、懐古園である。
なんとなく入ってみる気がおこらなくなって、そのまま南にむかった。・・・
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