地遊人

日常のことごと、出来事を、気ままに書き記していく。
62歳からの自己整理・自己満足策とボケ防止挑戦プログ。

中山道六拾九次を歩く【3】上尾宿~鴻巣宿

2009年04月15日 |   中山道四人旅
上尾宿から鴻巣宿まで






上尾宿を通り桶川宿に入ると、今も旅館を営む武村旅館(写真上)や古い土蔵造りの家(下・米屋)が、見える。


【桶川本陣跡】皇女和宮一行宿泊。
宿内の旅籠、商家、農家を問わず全ての屋敷が宿泊所で、用意された夜具蒲団だけでも日光道中の二宿一村に助けてもらい、なんと4050組という大変な負担であったそうな。
※中山道の各所に足跡を残す和宮の東下の行列は、空前絶後の規模で、駕籠の数800挺、その長さは50kmにも及び、各宿場では行列通過に前後4日かかったという。
※武装した護衛は一万を越え、あまたの食料、道具類、贈答品の荷馬の列には、江戸で組みたてるため解体された京風の家一式も加えられた。これは降嫁を承諾するにあたって和宮が出した五つの条件のうち二番目に相当するものである。
※和宮以前も将軍婚姻のための宮家や公家の姫君の輿入れ道中には、中山道が利用されたそうだ。
それは、東海道より天候に左右される難所が少なかったことと、東海道には「今切の渡し」と「薩多峠」の「切れること」、「去ること」を連想する縁起の悪い地名があり、これを避けたからとも云われている。




【稲荷神社と大盤石】
610Kgのこの大石を、岩槻の三ノ宮卯之助という力士が持ち上げたそうな。静かで、いい雰囲気の神社なのだが。



【大雲寺(禅寺】


【多聞寺】





【雛屋歴史資料館(吉見屋)】









【勝願寺】
寺の屋根には、葵の紋瓦。家康の鷹狩り、御殿を建てて通ったそうな。初代関東郡代・伊奈忠次、忠治父子の墓。小松姫の墓(写真一番下)・徳川四天王の一人、本多忠勝の長女。信州上田城の名将・真田昌幸の長男信之(幸村の兄)の妻。
信之留守中、敵方となった昌幸、幸村を沼田城に入れず。陣を張った正覚寺に酒肴用意、夜、小松姫、孫とともに訪れた。中山道を通り鴻巣まで来た時、病に倒れ死去。享年49歳。
遺骨は、勝願寺、沼田、上田の3ヶ所に分骨供養された。(上田は、上田公園西の芳泉寺に墓がある)


【鴻神社】境内に鴻巣という地名の由来あり。


【氷川八幡神社】

【今回の旅】
・実施日 19年6月24日(日)午前10時から午後5時
・天候  曇り 小雨 気温27,8度か
・メンバー4人
・距離  直線で16Km位 (自宅から自宅 34,987歩・      ・・約25Km)
・見所  勝願寺(鴻巣宿)
残念: 
・稲荷神社(桶川宿)大きな銀杏の木2本を、なぜ切ってし  まったのか?
・桶川は、山形に次いで「紅花」で有名なのに、街道沿いには 何も展示や紹介・宣伝する仕組みがないのだ。もったい   ない。
     
・双方の宿とも、所在を知らせる看板が無かったり、あっても 不親切。
・吉見屋の見学料は無料にして欲しかった。
・総体的に、今回は見所の少ない旅。蕨宿と違って、宿や街道 に熱意が感じられなかったのが残念。

【今回の俳句駄作】
 梅雨晴れ間 今は昔の 上尾宿(M/H)
 雨に照る 紅花の里 土の蔵(M/H)
 空梅雨や 門で佇む 勝願寺(松)
 夏木立 雉鳩鳴くよ 鴻神社(松)
【次回予定】
熊谷宿から深谷宿へ

熊谷宿 八丁堤ノ景 (英泉画)

深谷之驛(英泉画)
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