地遊人

日常のことごと、出来事を、気ままに書き記していく。
62歳からの自己整理・自己満足策とボケ防止挑戦プログ。

中山道六十九次を行く-16-

2008年10月29日 | 【17】中山道(予備)
(10月26日~28日)
いよいよ近江路へ
美江寺宿から赤坂宿、垂井宿、関ヶ原宿、今須宿、柏原宿、
     醒井宿、番場宿、鳥居本宿へ




「ムーンライトながら」を使ったので、終点の大垣で早朝の短時間、大垣城に寄って見た。

【関が原の合戦と大垣城 】
1600年(慶長5)、石田三成ら豊臣方の西軍は、徳川家康を討つため東上して美濃の国に入った。
時の大垣城主・伊藤盛宗は豊臣家の家臣で西軍に属していた。そこで、三成は、大垣城に入城して
西軍の本拠とし、付近の村や西方の南宮山にかけて諸将に陣を張らせ、全軍の集まるのを待った。
ところが、東軍の進出が余りにも早く、美濃の諸城を攻略して、大垣城から見下ろす西北の赤坂・
岡山を中心に布陣したため、西軍の動揺は大きかった。
9月14日、三成の謀将・嶋左近(しまのさこん)はこれを救うため、一計を案じて東軍を誘い、
予め配置した伏兵と呼応し、笠木村にて、東軍の中村一栄・有馬豊氏隊に奇勝を得た。
(これを“杭瀬川の戦い” という)
そのため、一時は西軍の士気は上がったが、東軍徳川方の策戦におびき出され、大垣城に兵7,500
を残して関が原に移動し、翌15日、両軍が関が原の原野で激突する一大決戦となった。
関が原での本戦後も大垣城の攻防戦は三日三夜つづき、城内に裏切りが出たため、遂に落城した。
この戦いで、城下町は東軍に火をかけられ、三日にわたり燃え続け、凄惨を極めたという。


今回の旅の始まり、江戸から55番目の宿、美江寺宿


鷺田橋から鷺が見えた。



【小簾(おず)紅園】
皇女和宮の歌碑がある。(舟で揖斐川を渡る時、馬淵家の庭の美しい紅葉をみながら)  
  落ちてゆく 身としりながら もみぢ葉の 人なつかしく こがれこそすれ


【聖観音道標】
三ツ屋町に入り十字路の右角に小さな祠とその前に『道標聖観世音菩薩』の標石がある。
祠の中の聖観世音菩薩は古いもので、像の両側に『右ぜんこうじ道、左谷汲山、ごうど、いび近道』
と彫ってあって道標の役割もしたと。







【安楽寺】(赤坂宿)
聖徳太子が創建し、672年の壬申の乱の時、大海人皇子が戦勝を祈願し、戦後は、大友皇子の冥福
を祈った寺と伝えられている。




【お茶屋屋敷跡】
家康が上洛の時の休憩施設。中山道に残る「お茶屋」としては唯一の遺構で重要な遺跡。





【南宮大社】(垂井宿)
初代神武天皇時代(約2650年前)の創建といわれ、祭神の金山彦命は金属・鉱山の神といわれている。
金山彦命を祀る全国約3000社の総本宮。延喜式の名神大社で、美濃国一の宮。


笹尾山から関ヶ原を望む。



【笹尾山】三成の本陣(関ヶ原宿)


関ヶ原から笹尾山を望む。


【関ヶ原古戦場跡】


柿を狙う猿。シーと云ったら、敵愾心むき出しになって、身を乗り出してきた。



【不破の関跡】(今須宿)
日本三関のひとつ
壬申の乱の翌年、天武天皇(大海人皇子)はここに不破関をおき、天下の変乱に備えるとともに
通行人たちを調べました。
越前の愛発、伊勢の鈴鹿とならんで重要な関所でした。
当時の総敷地面積は約120,000平方メートル余り(37,300坪)。中央を東山道(のちの中山道)
が通り、通行人は目的地や携行品などを書いた証明書を見せて通らなければなりませんでした。
関所の機能は延暦8年(789)まで続きました。
ちなみに、この不破関を境に関東、関西の呼称が使われるようになりました。
三輪家の庭園が関所跡の一角で、鎌倉時代以後歌枕として名が知れ渡りました。
芭蕉をはじめとする俳人や歌人が立ち寄っていて、句碑や碑文が多数あります。
(関ヶ原町観光ホームページより)


写真不調、岐阜(美濃)と滋賀(近江)の県境が、小さな溝で区切られている。
【寝物語の里】これより近江に入る
 
司馬遼太郎「街道を行く<24>近江散歩、奈良散歩」より
・・・「ねものがたりの里」など、地名として、一見、ありうべきでなさそうに思えるが、・・・
近世ではこの地名を知っていることが、京の茶人仲間では、いわば教養の範囲に属した。・・・
江戸では「小判何両」というように金本位制で、京・大坂は「銀何匁」というように、銀本位制・・・
方言と通貨に関するかぎり、日本国の東西の境界は、寝物語の里の小溝ひとすじであったとも
いえる。・・・





【円乗寺】(寂照山円乗寺成菩提院)(柏原宿)
天台宗の古刹。織田信長は、浅井長政と佐和山城で会見する前、ここに泊まっている(1568年)。
足利義明を伴って京に行くときも泊まった。秀吉もそれに習いここに宿泊した。
成菩提院の20世の住持は、家康・秀忠・家光の三代の各将軍の家庭教師・政治顧問・相談役・
黒衣の宰相として尽力した天海大僧正。
最盛期は160石、64坊と僧侶103人、末寺80を抱える大寺院だったという。

写真撮りそこねにつき商店のHPより。
【伊吹艾(もぐさ)の亀屋左京商店】

司馬遼太郎「街道を行く<24>近江散歩、奈良散歩」より
伊吹山は、胆吹山とも書く。古語で呼吸のことを息吹という。伊吹山は絶えず風や雲を息吹い
いる。
標高1377mである。近江第一の高山で、古代の人々がこの山を絶えず息吹いている精霊と見た
だけでなく、不思議の薬草が多く、いかにも奇(く)すしき山とみていた。・・・
中でも、灸のもぐさが代表的である。
江戸期に、この山中の宿場で、街道に面してもぐさ屋が十数軒もあり、明治後は1軒きりになっ
てしまったが、江戸期はどの店も繁盛していた。
面白いことに、どのもぐさ屋も「亀屋」という屋号を名乗っていた。鶴は千年、亀は万年という、
その亀のイメージで薬効を象徴させていたのである。また、このことは、近江商人が互いに足を
引っ張りあわないという気風と関わりがあるとみてよい。
伊吹もぐさが結構なものだということは、奈良朝のころから定評があったとはいえ、
世々の遷りによって一般には忘れられたかのようであったとき、この伊吹山麓の柏原の人で
松浦七兵衛(亀屋左京)という怪傑が出た。彼が大いに中興する。
亀屋左京の店の昔は、安藤広重の「木曾街道69次」の「柏原」の絵で見ることができる。
画面いっぱい、亀屋左京の店頭風景になっている。
亀屋左京家は、そのまま残っていた。長大な間口は、広重の絵以上の規模である。
ただ広重の絵のように間口がすべて開放されておらず、半ばは京格子で覆われている。


柏原宿歴史観の隣、「くつろぎの里」で名物「やいと」を食べた。
中山道柏原宿として、もぐさ(伊吹もぐさ)にこだわっている。
中身は、とろろ昆布をもぐさに見立て、白い肌(ゆでたまごの半切り)の上に乗せ、
その上に紅しょうがで火を表しているんだと。うまかった。


【加茂神社】(醒ヶ井宿)
「ヤマトタケルノミコト」像がある。その昔、伊吹山に住みついた大蛇を日本武尊が退治した。
しかし、大蛇の猛毒に苦しめられてしまう。やっとのことで醒井の地で清水で体を冷やすと
高熱がとれ、回復したという。


ようやく柿にありつけた。計ったように4個の柿がダンボールの中に入れてあった。
素朴な味であったが提供してくれた、旅人思いの方感謝します。






【居醒の清水】
醒井宿を流れる地蔵川の源流、居醒の清水は古くから中山道を往来した旅人の憩いの場所でもあり、
数々の歌にも詠まれている。
「古事記」「日本書紀」には日本武尊が伊吹山の大蛇を退治した際、毒気にあたり、
命からがらこの泉にたどり着き、清水で体をいやしたところ、高熱がさめたという話が伝わっている。
 それゆえ「居醒の清水」と呼ばれ、また醒井という地名もこの話が発端になったといわれている。
【醒井七湧水】十王水、天神水、西行水・・・・


【摺針(すりばり)峠】よりの夕焼け(鳥居本宿)
残念ながら、【望湖堂】から琵琶湖を見ることは出来なかった。望湖堂自体どこにある
のか分からなかった。夕方になり、少し気が急いていたのかもしれない。残念。
天気次第では、次回「中山道17」で行ってみるか。


広重が描いた「鳥居本」
広重の絵には峠の下に、すぐ琵琶湖が広がっているが、今は、新田開発がすすみ内湖の姿は
みられず、琵琶湖の姿はかなり先にしか見られないという。

【今回の旅】
・実施日 平成20年(08)10月26日(日)は夜行列車「ムーンライトながら」
       28日(火)は夜行バス「びわこドリーム2号」にて。
・天 候 初日26日は美江寺宿に到着、歩き始めたら雨が降り出し、悪い予感。降り止んだり、
      暑かったり寒かったり、不安定な天候。翌日は朝から雨。
      しばらくしたら曇り空ではあったが安定した天気になって「ホッ」という感じであった。
      まあいい方か。

・メンバー4人(65歳2人、64歳2人)

・距 離 
     1日目・・・36,381歩( 27,29Km)
     2日目・・・41,019歩( 30,76Km)
    
・見 所
     ・大垣城(桜の時か紅葉のときはもっといいかも。以下同じ)
     ・安楽寺
     ・南宮大社
     ・笹尾山
     ・円乗寺  
     ・居醒の清水・七湧水
 
・食 事(うまかった、よかった)
     ・魚しげの夕食(関ヶ原)
     ・旅館神山の朝食(関ヶ原)
     ・くつろぎの里(柏原)の名物「やいと」
・ビックリ
     予約しておいた、つるや旅館のおばあさん(80数歳)の健康状態悪しによる旅館変更。
      (結果的に美味しい夕食と朝食にありつけ良かったが、ビックリ)

・満足度 天候に変化はあったが、2日間何とか歩き続け目的地に到達。
      見所も結構あり、満足の部類。不満なことは、「富有柿」を食べたかったなーということと、美    
      濃路であまり上手い酒には逢わなかったなーということか。

【どこまで来たか?】
・宿  :六十九次中、63番目の宿(鳥居本宿)
・距離 :534Km中、473Km

【俳句駄作集】
 富有柿 横目に歩く 美濃路かな
 揖斐川や 秋日に光る 2羽の鷺
 静けさや 秋気が包む 安楽寺
 朝霧や 軍旗さびしき 関ヶ原
 秋近江 寝物語や 溝一つ
 富有柿 脇を固める 円乗寺
 秋の昼 もぐさ見立ての やいとかな
 近江入り 旅人思いの 柿4つ
 摺針の 峠の秋や 空赤く

次回中山道17は、紅葉の近江路を南下、

  彦根に寄り道、鳥居本宿、高宮宿、愛知川(えちがわ)宿、
  武佐宿、守山宿までか、京まであと一歩のところまで。


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