(9月29日~10月1日)
雨の中、御嵩宿から伏見宿、太田宿、鵜沼宿
加納宿、河渡宿、美江寺宿へ
江戸を出て430Km,55番目の宿、美江寺宿をめざして!!
【愚渓寺】(御嵩宿)
臨済宗妙心寺派の古刹。後に京都妙心寺五世となった「義天玄承」が開山。
臥龍(がりょう)石庭は竜安寺(細川勝元創建―室町時代)の原型とされる。
「ホー」、見事な波打つ石庭に感心、皆でしばし見とれた。
1ヶ月ほど前、多分住職さんに見学の申し出をしたら、「見せられるところは何も無い」
とおっしゃっていたが。
それにしても、庭を見ながらお茶でも一服欲しかったなーとは、皆の思いだったのでは。
最初に訪れたこの石庭に、夜行バスでの寝不足を忘れた。
【太田宿】
【脇本陣林家】(中山道随一の脇本陣遺構といわれる。板垣退助泊)
月曜日は休館ということで、中を見学できなかった。残念。
【脇本陣林家】うだつ
「うだつ」 とは、木造建築で棟木(むなぎ)をささえるために梁(はり)の上に立てる
短い柱のこと。
この「うだつ」が梁の上に立たなければ、棟木をすえることができずに家はできあがらない。
転じて、立身出世ができないことや地位や境遇などがよくならないことの意味になった。
うだつ(卯建)は建築用語で「宇立」とも書かれる。平安時代は「うだち」とよばれたが、
室町以後うだつと訛った。防火壁の役目がある。
飾り瓦
【うとう坂(峠)】
しょぼしょぼ雨が降り続く、暗い峠を無言で登ってゆく。こういう峠はいい感じなのだ。
少しだけ汗をかいた。
【犬山城】http://www.inuyamajohb.org/
・国宝犬山城天守は、三層五階の望楼式となっている。本の丸で間近に見る天守もいい姿
だが木曽川の河原より見る天守は実に絵になると。(現存最古と言われる)
・犬山城の前身木下城は、天文6年に織田信康が築いた。この城は、信長の美濃攻略、
秀吉と家康の小牧長久手の戦いなどの舞台となった。
文禄4年、石川貞清が城主となり、現在の城山に築城する。
慶長5年、清洲城主松平忠吉の付家老 小笠原吉次が入り、次いで名古屋城主徳川義直の
付家老平岩親吉が入った。
親吉没後、成瀬正成が3万石で元和3年に入り、代々尾張徳川家の付家老として明治に至った。
急な板階段を上りながら、昔の武士の大変さを思ったりした。それにしてもこういう木造の城は
何か「ホッ」とするものがあるのはなぜだろうか。
関ヶ原の戦いの時、山内一豊はこの城から出陣したそうだ。
【赤坂神社】
2日目の30日早朝、雨は上がっている。今日はここがスタート地点、しっかり拝んだ。
【鵜沼宿町屋(武藤家)】
【二ノ宮神社(鵜沼)】
赤坂神社もそうだが、立派な神社が同じ宿に2つあった。大切にしているようだ。
いろんな飾り瓦(留蓋、隅蓋、巴蓋)
【少林寺】
臨済宗妙心寺派の寺院。山号は竜慶山。本尊は聖観世音菩薩。
美濃四国札所第二十八札所。美濃四観音の一つ。
君が代にある「さざれ石」
【手力雄(たぢからお)神社】(加納宿)
貞観2年(860)創建
祭神は、日本神話で天照大神が隠れた天の岩屋の岩戸を開けた怪力無双の手力雄。
その岩戸を取って遠くへ投げた時、一方の戸は九州宮崎県の高千穂町(天岩戸神社)へ、
もう一方の戸が信濃国の戸隠へ。ちなみにその岩戸が山となり、戸隠山と呼ばれるように
なったとさ。(毎年4月第二土曜日に行われる火祭りは、全国的に有名だと)
戸隠山は、標高1,904メートル。
天照大神(あまてらすおおみかみ)が天岩戸(あまのいわと)に隠れたとき、力のある
神様・天手力雄命(たじからをのみこと)がその岩戸を投げたのが、戸隠山だったという
伝説が残されている。
戸隠神社(奥社)は、その戸隠山の中腹にあり、天手力雄命を祀っている。戸隠山は、
新しい道に進むときに訪れると、強い山と大自然の力からのパワーをもらえる、と伝え
られている。
就職を決めるときや、定年退職後の第二の人生を迎える前に最適の場所だとさ。
(第三の人生を迎える前に、皆でお参りに行こうかな?)
天照大御神
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%85%A7%E5%A4%A7%E7%A5%9E
天岩戸
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E6%88%B8%E9%9A%A0%E3%82%8C
【本陣跡】
(和宮の歌碑) 遠ざかる 都としれば 旅衣 一夜の宿も 立うかりけり
【加納天満宮】
文安2年(1445年)斎藤利永が沓井城(旧加納城)を築き、その守護神として天満宮
を勧請しました。古記によれば創始は更に百余年以前で、上加納に祭祀せられていました。
その後城主斎藤利政(道三)が稲葉山城に移り、沓井城が廃城となった後も天満宮は住民
たちによって守られました。
【小紅(おべに)の渡し】(河渡宿)
乙津寺の裏手
名前の由来・・・昔、信濃の一日市場(安曇野三郷村)の農家の娘が、美濃の商家に嫁つ
いで来る時のことでした・・・・
中山道歩きで初めて渡しで川を渡る。
船着場に到着があと15分遅れたら、おじさんが家に帰ってしまうところだった。
対岸の小屋に向け、大きな声で叫んだらようやく、もっそりとして迎えに着てくれた。
危なかったなー、「ホッ」
夕方の長良川は波はなく、魚が沢山泳いでいた。鵜飼はもう少し下流で行われているそうだ。
天気がよければ、稲葉山城(岐阜城)が見えるそうだ。(岐阜城はまたいつか)
この渡し舟は県道扱いということで、無料だった。
晴れていればいい夕陽が見られたかも知れない。
川を渡ってから、小雨降る夕暮れの道を、黙々と美江寺宿に向かう。長かったなー。
限界に近い距離か。背中のリュックがいやに重かった。
今日一日で45,000歩、34Km、今迄で最高記録だった。
岐阜に戻って、銭湯に入る。今夜も夜行バスだ。今度のバスは3列でユックリしていそうだ。
【今回の旅】
・実施日 平成20年(08)9月28日(日)の夜行バス~30日(火)の夜行バス
・天 候 初日29日は朝から小雨。30日は雨が上がり、夕方までは傘が要らなかった。
もうかったような気分だった。
・メンバー4人(65歳2人、64歳2人)
・距 離
1日目・・・33,912歩( 25,48Km)
2日目・・・45,469歩( 34,10Km)最高記録
・見 所
・愚渓寺の石庭
・犬山城(春か秋はもっといいかも)
・手力雄(たぢからお)神社
・食 事(うまかった、よかった)
・そば道場のそば(太田宿)
・満足度 2日間雨を覚悟していたが、2日目の曇り空で何とか目標地点に到達。
見所も見たし、まあまあか。で、中程度。だが、車の多い国道、県道歩きが多
く「参ったなー」ということと、小紅の渡しがモーターだったことが残念だった。
6年前発行の案内書では、櫓をこいでいるおじさんの姿があったのにナー。
こういうところにも高齢化の影響が押し寄せているんだ。
【どこまで来たか?】
・宿 :六十九次中、55番目の宿(美江寺宿)
・距離 :534Km中、431Km
【俳句駄作】
秋の朝 愚渓寺石庭 波静か
秋曇り うだつの上がる 太田宿
薄暗き うとうの坂や 秋の雨
木曽川や 犬山城より 秋の風
手力雄 狛犬並ぶ 秋神社
小紅にて 長良を渡る 秋気かな
次回、中山道16では、関ヶ原宿を経て近江路に入る。
京都まであと3回、いよいよ近づいてきた。
中山道17で、秋の近江路を歩き、
京の三条大橋には、来春、桜の季節に到達予定。
関ヶ原の戦いが始まったのは、慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日)の午前8時頃。
丁度次回の旅の頃だ。赤備えの井伊直政の隊が、味方の福島正則を出し抜き、
西軍との最初の戦端を開いた・・・(司馬遼太郎「関ヶ原」「街道をゆく<24>近江散歩」)
【番外:県民性】
■岐阜県は飛騨と美濃地域の二つに大別される。
「美濃を制する者は天下を制す」ともいわれ,天下とりの場ともなった。
こうした風土で, 『輪中根性』とも呼ばれる美濃の人柄を表す言葉が生まれた。
同じ輪中(グループ間)では団結するが,他の輪中のことは眼中になく一切構わない。
見た目は柔和だが芯は閉鎖的で自己中心的。金銭に厳しい合理主義者。
対して,飛騨の人は勤勉で素朴な性格を持つという。
■滋賀県:京都に接するという地域性からか,洗練された都会的な感性を持つ。
また,この地は天秤棒に象徴される近江商人の地でもある。
商才にたけ計算高いが,本質的に自らを律し,勤勉と禁欲を心がけている。
そして,計画性があって,合理的な考えをする人が多い。
雨の中、御嵩宿から伏見宿、太田宿、鵜沼宿
加納宿、河渡宿、美江寺宿へ
江戸を出て430Km,55番目の宿、美江寺宿をめざして!!
【愚渓寺】(御嵩宿)
臨済宗妙心寺派の古刹。後に京都妙心寺五世となった「義天玄承」が開山。
臥龍(がりょう)石庭は竜安寺(細川勝元創建―室町時代)の原型とされる。
「ホー」、見事な波打つ石庭に感心、皆でしばし見とれた。
1ヶ月ほど前、多分住職さんに見学の申し出をしたら、「見せられるところは何も無い」
とおっしゃっていたが。
それにしても、庭を見ながらお茶でも一服欲しかったなーとは、皆の思いだったのでは。
最初に訪れたこの石庭に、夜行バスでの寝不足を忘れた。
【太田宿】
【脇本陣林家】(中山道随一の脇本陣遺構といわれる。板垣退助泊)
月曜日は休館ということで、中を見学できなかった。残念。
【脇本陣林家】うだつ
「うだつ」 とは、木造建築で棟木(むなぎ)をささえるために梁(はり)の上に立てる
短い柱のこと。
この「うだつ」が梁の上に立たなければ、棟木をすえることができずに家はできあがらない。
転じて、立身出世ができないことや地位や境遇などがよくならないことの意味になった。
うだつ(卯建)は建築用語で「宇立」とも書かれる。平安時代は「うだち」とよばれたが、
室町以後うだつと訛った。防火壁の役目がある。
飾り瓦
【うとう坂(峠)】
しょぼしょぼ雨が降り続く、暗い峠を無言で登ってゆく。こういう峠はいい感じなのだ。
少しだけ汗をかいた。
【犬山城】http://www.inuyamajohb.org/
・国宝犬山城天守は、三層五階の望楼式となっている。本の丸で間近に見る天守もいい姿
だが木曽川の河原より見る天守は実に絵になると。(現存最古と言われる)
・犬山城の前身木下城は、天文6年に織田信康が築いた。この城は、信長の美濃攻略、
秀吉と家康の小牧長久手の戦いなどの舞台となった。
文禄4年、石川貞清が城主となり、現在の城山に築城する。
慶長5年、清洲城主松平忠吉の付家老 小笠原吉次が入り、次いで名古屋城主徳川義直の
付家老平岩親吉が入った。
親吉没後、成瀬正成が3万石で元和3年に入り、代々尾張徳川家の付家老として明治に至った。
急な板階段を上りながら、昔の武士の大変さを思ったりした。それにしてもこういう木造の城は
何か「ホッ」とするものがあるのはなぜだろうか。
関ヶ原の戦いの時、山内一豊はこの城から出陣したそうだ。
【赤坂神社】
2日目の30日早朝、雨は上がっている。今日はここがスタート地点、しっかり拝んだ。
【鵜沼宿町屋(武藤家)】
【二ノ宮神社(鵜沼)】
赤坂神社もそうだが、立派な神社が同じ宿に2つあった。大切にしているようだ。
いろんな飾り瓦(留蓋、隅蓋、巴蓋)
【少林寺】
臨済宗妙心寺派の寺院。山号は竜慶山。本尊は聖観世音菩薩。
美濃四国札所第二十八札所。美濃四観音の一つ。
君が代にある「さざれ石」
【手力雄(たぢからお)神社】(加納宿)
貞観2年(860)創建
祭神は、日本神話で天照大神が隠れた天の岩屋の岩戸を開けた怪力無双の手力雄。
その岩戸を取って遠くへ投げた時、一方の戸は九州宮崎県の高千穂町(天岩戸神社)へ、
もう一方の戸が信濃国の戸隠へ。ちなみにその岩戸が山となり、戸隠山と呼ばれるように
なったとさ。(毎年4月第二土曜日に行われる火祭りは、全国的に有名だと)
戸隠山は、標高1,904メートル。
天照大神(あまてらすおおみかみ)が天岩戸(あまのいわと)に隠れたとき、力のある
神様・天手力雄命(たじからをのみこと)がその岩戸を投げたのが、戸隠山だったという
伝説が残されている。
戸隠神社(奥社)は、その戸隠山の中腹にあり、天手力雄命を祀っている。戸隠山は、
新しい道に進むときに訪れると、強い山と大自然の力からのパワーをもらえる、と伝え
られている。
就職を決めるときや、定年退職後の第二の人生を迎える前に最適の場所だとさ。
(第三の人生を迎える前に、皆でお参りに行こうかな?)
天照大御神
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%85%A7%E5%A4%A7%E7%A5%9E
天岩戸
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E6%88%B8%E9%9A%A0%E3%82%8C
【本陣跡】
(和宮の歌碑) 遠ざかる 都としれば 旅衣 一夜の宿も 立うかりけり
【加納天満宮】
文安2年(1445年)斎藤利永が沓井城(旧加納城)を築き、その守護神として天満宮
を勧請しました。古記によれば創始は更に百余年以前で、上加納に祭祀せられていました。
その後城主斎藤利政(道三)が稲葉山城に移り、沓井城が廃城となった後も天満宮は住民
たちによって守られました。
【小紅(おべに)の渡し】(河渡宿)
乙津寺の裏手
名前の由来・・・昔、信濃の一日市場(安曇野三郷村)の農家の娘が、美濃の商家に嫁つ
いで来る時のことでした・・・・
中山道歩きで初めて渡しで川を渡る。
船着場に到着があと15分遅れたら、おじさんが家に帰ってしまうところだった。
対岸の小屋に向け、大きな声で叫んだらようやく、もっそりとして迎えに着てくれた。
危なかったなー、「ホッ」
夕方の長良川は波はなく、魚が沢山泳いでいた。鵜飼はもう少し下流で行われているそうだ。
天気がよければ、稲葉山城(岐阜城)が見えるそうだ。(岐阜城はまたいつか)
この渡し舟は県道扱いということで、無料だった。
晴れていればいい夕陽が見られたかも知れない。
川を渡ってから、小雨降る夕暮れの道を、黙々と美江寺宿に向かう。長かったなー。
限界に近い距離か。背中のリュックがいやに重かった。
今日一日で45,000歩、34Km、今迄で最高記録だった。
岐阜に戻って、銭湯に入る。今夜も夜行バスだ。今度のバスは3列でユックリしていそうだ。
【今回の旅】
・実施日 平成20年(08)9月28日(日)の夜行バス~30日(火)の夜行バス
・天 候 初日29日は朝から小雨。30日は雨が上がり、夕方までは傘が要らなかった。
もうかったような気分だった。
・メンバー4人(65歳2人、64歳2人)
・距 離
1日目・・・33,912歩( 25,48Km)
2日目・・・45,469歩( 34,10Km)最高記録
・見 所
・愚渓寺の石庭
・犬山城(春か秋はもっといいかも)
・手力雄(たぢからお)神社
・食 事(うまかった、よかった)
・そば道場のそば(太田宿)
・満足度 2日間雨を覚悟していたが、2日目の曇り空で何とか目標地点に到達。
見所も見たし、まあまあか。で、中程度。だが、車の多い国道、県道歩きが多
く「参ったなー」ということと、小紅の渡しがモーターだったことが残念だった。
6年前発行の案内書では、櫓をこいでいるおじさんの姿があったのにナー。
こういうところにも高齢化の影響が押し寄せているんだ。
【どこまで来たか?】
・宿 :六十九次中、55番目の宿(美江寺宿)
・距離 :534Km中、431Km
【俳句駄作】
秋の朝 愚渓寺石庭 波静か
秋曇り うだつの上がる 太田宿
薄暗き うとうの坂や 秋の雨
木曽川や 犬山城より 秋の風
手力雄 狛犬並ぶ 秋神社
小紅にて 長良を渡る 秋気かな
次回、中山道16では、関ヶ原宿を経て近江路に入る。
京都まであと3回、いよいよ近づいてきた。
中山道17で、秋の近江路を歩き、
京の三条大橋には、来春、桜の季節に到達予定。
関ヶ原の戦いが始まったのは、慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日)の午前8時頃。
丁度次回の旅の頃だ。赤備えの井伊直政の隊が、味方の福島正則を出し抜き、
西軍との最初の戦端を開いた・・・(司馬遼太郎「関ヶ原」「街道をゆく<24>近江散歩」)
【番外:県民性】
■岐阜県は飛騨と美濃地域の二つに大別される。
「美濃を制する者は天下を制す」ともいわれ,天下とりの場ともなった。
こうした風土で, 『輪中根性』とも呼ばれる美濃の人柄を表す言葉が生まれた。
同じ輪中(グループ間)では団結するが,他の輪中のことは眼中になく一切構わない。
見た目は柔和だが芯は閉鎖的で自己中心的。金銭に厳しい合理主義者。
対して,飛騨の人は勤勉で素朴な性格を持つという。
■滋賀県:京都に接するという地域性からか,洗練された都会的な感性を持つ。
また,この地は天秤棒に象徴される近江商人の地でもある。
商才にたけ計算高いが,本質的に自らを律し,勤勉と禁欲を心がけている。
そして,計画性があって,合理的な考えをする人が多い。
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