12345・・・無限大  一粒の砂

「一粒の砂」の、たわごと。
無責任結構・ 中途半端・ちゃらんぽらん・ 出たとこ勝負、で参りましょう!

歌川国芳

2008年02月23日 07時53分57秒 | Weblog

 まずこの「寄せ絵」をご覧頂こう。

   

驚くなかれ、一人の人物の顔に見えたものが、見方を変えると複数の人物像に見えるではないか。

おそらく、実際に弟子達にやらせ確認したのであろうと言われている。
また、江戸庶民達は、この絵の真似をしたのではないかとも言われている。

日本人離れした、独創的な遊び心とでも言っておこう。
更に、お暇な向きは、こちらをご覧頂こう。

 http://www.kiseido.com/printss/p6-j.htm

彼は、3枚構成のワイドスクリーンを導入した初めての絵師である。

あいにくと、インターネット上では見つけることが出来なかったが、天保の改革を皮肉った作品もある。この種の絵は、「遊び心」や「風刺」を封じ込めた絵なのである。

生来、祭りを煽ることが大好きな性分だったようで、江戸っ子の反骨精神やユーモアを如実に絵に表している一面も持ち合わせているのである。

 亡くなる時、弟子たちに言った言葉が
「俺の名前を継いだら、化けて出る」である。

最後まで、茶目っ気に溢れていたようである。

 しかし、こんな絵の面白さが理解できた幕末の江戸庶民の「すごさ」に感心させられた。

参考:Wikipediaより、

歌川 国芳(うたがわ くによし、1798年1月1日(寛政9年11月15日) - 1861年4月14日(文久元年3月5日))は、江戸時代末期の浮世絵師。
江戸時代末期を代表する浮世絵師の1人である。

国芳は、同時代に活動した葛飾北斎や歌川広重らの人気絵師に比べ、日本における知名度や評価は必ずしも高いとは言えなかった。

「幕末の奇想の絵師」として注目され、再評価されるようになるのは20世紀後半になってからである。

 師・豊国没後の1827年(文政10年)頃に発表した『水滸伝』のシリーズが評判となり、30歳を過ぎてようやく人気絵師の仲間入りをした。

国芳には多くの門弟がおり、幕末から明治前期に活躍した異色の画家・河鍋暁斎や、「最後の浮世絵師」と呼ばれた月岡芳年も国芳に弟子入りしたことがあった。国芳は明治維新を目前にした1861年(文久元年)、数え年65歳で没している。


作品は役者絵、武者絵、美人画、名所風景から戯画、春画までさまざまなジャンルにわたっているが、中でも歴史、伝説、物語などに題材を採り、大判3枚続きの大画面に巨大な鯨や骸骨、化け物などが跳梁するダイナミックな作品に本領を発揮している。

また、無類の猫好きとしても知られ、常に数匹の猫を飼い、懐に猫を抱いて作画していたと伝えられるほどで、猫を擬人化した作品も多い。猫に限らず、狸、雀、蛸などの身近な動物を擬人化して世相を風刺したり、動物に託して江戸の庶民の生活を描写した作品も多く、これらは現代日本の漫画・劇画のルーツとも考えられる。

「寄せ絵」(一見、1人の人物の顔に見えたものが、見方を変えると複数の人物像に見えるといったもの)や、自宅で絵を描く自身の顔の前を、絵の中の動物や人物が横切り、自身の顔を隠している「自画像」のような遊び心のある作品も国芳の得意としたものである。

華美をいましめる天保の改革(1841年~)以後、幕府の禁令により、役者や遊女の1枚刷り錦絵は出版できなくなった。しかし、国芳は持ち前の江戸っ子気質から魚の顔を役者の似顔にするなど、さまざまな便法で禁令を潜り抜け、役者の似顔を描き続けた。


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