12345・・・無限大  一粒の砂

「一粒の砂」の、たわごと。
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夢のスマロかホンキュの街か

2008年08月17日 05時43分56秒 | Weblog
上海同窓会幹事からのメールにこんな記載があった。

「全員そろって上海ブラブラ歩き(人民公園ー南京路ー外灘ー豫園ー新天地ー元気があれば虹口まで。

石原裕次郎の「夜霧のブルース」に出てくる「夢のスマロかホンキュの街か」と
いう歌詞にあるスマロとは「四馬路」で我々が泊まる南京東路(旧名三馬路)の
隣の通り、昔は怪しい地域だったらしい。

ホンキュは「虹口」のこと。昔日本租界がありその面影や魯迅の寓居も残っておりとてもレトロな地域。サッカースタジアムも近くです。」

「夢のスマロかホンキュの街か」については、小生はむしろもっと古いディック・ミネの「上海ブルース」の方がぴんとくるのである。

涙ぐんでる 上海の
夢の四馬路の 街の灯
リラの花散る 今宵は
君を想い出す
何も言わずに
別れたね君と僕
ガーデン・ブリッジ
誰と見る青い月

甘く悲しい ブルースに
なぜか忘れぬ 面影
波よ荒れるな 波止場の
月もエトランゼ
二度とは逢えない
別れたらあの瞳
想いは乱れる
上海の月の下


あいにくとディクミネ本人の歌が無いので、男装歌手のものにした。





今日我々民衆の外国への関心は、文化的な興味や観光に関する関心が主なのだろうが、この時代には海外雄飛の言葉で表されるような、自分が広大な海外で活躍する事を多くの人達が夢見る事の出来た時代だったようである。

戦前のある時期は、今日より強い海外への憧れを国民が抱かされていたのであったろうと思う。歌も時代を代表するのである。


補足(若い人達のために);

ディック・ミネ(1908年10月5日 - 1991年6月10日)は徳島市出身の日本のジャズ・ブルースの歌手、俳優である。訳詞家・編曲家としては本名の三根 徳一(みね とくいち)を名乗り、第二次世界大戦中の敵性語規制の時代には三根 耕一(-こういち)と名乗った。創成期のテイチクレコードの立役者で、トーキー以降の日活と同社が提携したミュージカル映画をはじめとして映画に多く出演し、その後純然たる俳優としても活躍した。


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2 コメント

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はじめまして (楽天二三男)
2011-03-24 17:37:01
デイック・ミネが歌ったンですか・・

ホンキュも四馬路も上海の地名とは、

知りませんでした。
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はじめまして (壬生)
2012-02-10 00:10:16
夜霧のブルースもディックミネの歌だったと思います。
ホンキュの意味を検索して貴ブログに到達しました。
ありがとうございました。
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