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本が好き 悪口言うのもちょっと好き

読書日記です。っていうほど読書量が多いわけではないけれど。。。

電子書籍を日本一うってみたけれど、やっぱり紙の本が好き

2011-08-20 | 評論
電子書籍を日本一売ってみたけれど、やっぱり紙の本が好き。
日垣 隆
講談社

 

 昨年のiPadの出現により、電子書籍が一気に一般的になり、

 紙の本は、近い将来消滅してしまう、電子書籍化に乗り遅れたら未来はないぞ!

 という脅迫的な論評を張る人もいるようですが、著者は

 

   私は何も、電子書籍に対して紙の本の優位を説きたいわけではありません。

ただ、電子書籍とそのデバイスの普及は、せいぜいが本のヘビーユーザたちにいきわたればそれだけでおしまい、という市場規模であることはわすれないほうがいい、と言っているだけです。

 

 と言って、電子書籍マーケットの未来は決してバラ色ではないといいます。

 今まで本を読まなかった人が、これまでと同じコンテンツであれば、

 電子書籍になったからといってそれらを購入してくれるようになるわけではない。

 言われてみれば、確かにそうです。

 これまで新聞を読んでいた人が、電子版でいいやということにはなっても、

 新聞を読まなかった人が、ネットで新聞を読むかというと、それはなさそうですもんね。

 「検索」目的の辞書類は電子書籍が圧倒的に優位だし、

 そもそも、電子データなら在庫費用が殆どかからないので、「絶版」にする必要がない

 という点でも電子書籍のメリットは大きい。

 だけど、『カラマーゾフの兄弟』なんかを誰が電子書籍で読みますか!?

 と言われても、本格的な電子書籍用デバイスで本を読んだことがないので、

 そうそうと納得はできませんが、

 散々使ってきたという著者が言うんだから、きっとそう思わせるものがあるんでしょうね。

 ま、そういうようなことが、まえがきから、第1章くらいまでは書かれております。

 で、2章以降は、新聞など既成メディアの超辛口批判と、自分がいかにスマートで、

 先見の明があり、たくさん稼いでいるかという自慢です。

 へ~、ふーんと読んではいたのですが突然、TBSの批判になって、目が点。

 なんか、ご自身がどうもTBSから嘘つき呼ばわりされたようで、

 そのことに対する怒りを、滔々と書かれていて、

 そのうち、トヨタのディーラや老舗旅館で自分が受けた酷いサービスなども書き連ねて

 生き残れないものの典型と酷評されるのですが、

 だんだん、私、何の本読んでいたのかしら・・・とわからなくなりそうでした。

 様々な批判は、納得できる部分も多いのですが、

 それにしてももう少し、自慢せずに書けないのでしょうか。

 図書館で借りて読んだからいいけど、自分で1300円出して買っていたらかな読後感が悪くて、

 後悔していただろうなということです。

 著者についての、ウィキペディアの記載も結構、辛口・・・。

 見た目は、学校の先生っぽいのに、言いたいこといってきて敵が多いみたいですね。

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なぜコンピュータの画像はリアルに見えるのか 梅津信幸

2011-08-17 | 評論
なぜコンピュータの画像はリアルに見えるのか―視覚とCGをめぐる冒険
梅津信幸 著
エヌティティ出版

 

 見えるということの説明のため、目や脳のしくみから、光と色の関係などをとてもわかりやすく説明したのち、少しずつコンピュータ画像の説明にはいっていき、コンピュータ-関連のノウハウ本のようなテイストではなく、素人むけの科学読物という感じでしたので、素人の私にはとても楽しめました。

 私も毎日コンピュータを扱って仕事をしていますが、CGについては特に詳しく知らなくても大きな支障はありません。それでもこのようなベーシックな仕組みを知っていると、毎日見ている画面が少し面白く見えてくるような気がします。

 また、旦那は画家ですので、CGとは全く関係ない絵ですが、それでも見せる、見えるということに関しては同じなので、彼の描いている絵を見る目も少し肥えたかな・・・?

 この記事を書くためにい、アマゾンで、著者の他の作品を見ていて、コンピュータ関連ばかりでなく、人にものを伝えるためのノウハウ本(こちら)なども書かれていたのを発見。

 「頭がいい人」の多くは、「難しいこと」を「やさしいこと」へと変換して理解している。だからこそ、説明も分かりやすい。

 と内容紹介にありましたが、本書でも、小さいものを見る顕微鏡の仕組みを、魚(光)と網(物質)の関係に、CG(コンピュータグラフィック)とCV(コンピュータビジョン)を英文読解と、英作文に、データ圧縮を蒲団圧縮袋にたとえたりして、イメージしやすいため、ややこしい話でも、わりと頭にすっと入ってきます。

 ただ、この本のタイトルは、たぶん著者が決めたものではなく、インパクトを考えて出版社が決めたものと思います。

 つまり、何故コンピュータ画像がリアルに見えるかということが結論となるような構成では書かれていないのです。

 むしろ、コンピュータはどのように画像を扱っているのかというような例が沢山集められているというような感じです。

 というより、最後の方で、だんだんと専門的になってくるので、私がその結論を理解しきれなかったというのが本当のところかもしれませんが(汗)。

 

 余談   本書の参考図書の筆頭に挙げられていた、”見る”(サイモン・イングス著)という本を私も以前読んだのですが、ほんとに面白い本でした。が、これまた内容が豊富すぎて、まとめきれず、記事にできていなかったことを再認識・・・。珍しく自分で購入した本で家にあるので、もう一度読んでみようかなぁ・・・。

人気ブログランキングへ 暑さも峠をこした・・・かなと思うのは希望的観測でしょうか?


苦悩するドイツ 川口マーン惠実

2011-07-29 | 評論
ドイツは苦悩する―日本とあまりにも似通った問題点についての考察
 川口マーン惠実
 草思社

 

 著者は、1956年生まれで、ドイツのシュツットガルト国立音楽大学大学院に留学し、その後ドイツ人と結婚して、本書出版当時はドイツ在住のようです。

 

 このプロフィールからは想像できない社会評論で、怖ろしく頭のいい人なんだろうなぁと思います。写真を見ても切れ長の目が、キツそうな感じで、お友達にはなれそうもないタイプかも・・・。

 

 とはいえ、本書は2004年出版ですから、少し前にはなりますが、ドイツの現状を知るにはとっても手ごろで読みやすい本でした。

 

 戦後の政治の移り変わりに始まり、経済、福祉や教育、環境対策、家族や移民の問題など、現代ドイツのエッセンスがきっちりまとめられています。

 

 ただ、えっと思ったのは、

 

 つまり戦後の日本人の心中では、アメリカの影響もあいまって諸々の価値観の入れ替えは起こったが、外部からの徹底的な精神的粛清を強いられることはなかった。

 

 という記述。

 それに比して、ドイツでは何を始めるにしてもまず徹底的な非ナチ化が不可欠であった。

 

 とあるので、ドイツという国を見てしまった後、日本をみるとそうなるのでしょうか。うちから見ていると見えないものもあるんですねぇ。

 

 本書が読みやすい理由の一つは、著者の目線が、専門家のそれではなく、一人の女性、母親、主婦としてのものだからというのがあると思います。なかなか、男性には書けない、生活感を伴った社会批評がユニーク。

 

 離婚やイスラム系移民、教育の問題についての章には、ご自身の子供やその友達の様子を通じて理解された様子で、なかなか説得力があります。(私が女だからかもしれませんが・・・)

 

 ただ、頭が切れるからだとは思いますが、やはりどこか上から目線なんですよね。

 

 ドイツまで音楽で留学して音楽家にならずにいるということは、もともと音楽的な才能は”人並み以上”のレベルで、留学できたのは才能があったからというより経済力のある裕福な家庭で育ったからだけとも想像でき、そうやって読めば、お金にはあまり困ったことのないすごく頭のいい御嬢さんの陥りがちな、結構右寄りな考え方で、「たかじんのそこまでいって委員会」などに出れば、出演者とそこそこ話が合いそうな感じです。田嶋陽子先生とは話は合わなさそうですが、かといって櫻井よしことは、ライバル意識でやっぱりうまくいきそうもない・・・そんなことを勝手に想像しながら読みました。

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ヘタな人生論より良寛の生き方 松本市壽

2011-07-09 | 評論
ヘタな人生論より良寛の生きかた―不安や迷いを断ち切り、心穏やかに生きるヒント (河出文庫)
松本市壽(全国良寛会常任理事)
河出書房新社

 

 良寛といえば、「手毬唄」の人で、子どもたちと遊んだという一面ばかりが思い浮かぶ人も多いかもしれない。

 

 という文章で始まるこの本ですが、・・・ はい、私もその一人です。

 どんな人かなんて考えてみようとも思いませんでした。

 江戸時代の後期の人で、曹洞宗のお寺で10年修行したのち、寺の住職になる道を選ばず、小さな庵に住み、托鉢をして生きる道を選んだとのこと。

 つまりは乞食(こつじき)坊主です。

 芭蕉も、また特に現代人もあこがれる、組織に所属せず、何も持たず生きるという乞食生活。

 本当の自由は、そこにしかないのかもしれません。

 とはいえ、厳しい生活。外見は、ただの浮浪者となんら変わらない・・・。

 こんな人が、村をうろうろしたら人々は警戒します。 だから、最初は里の人からも敬遠され、子供たちからもいじめられていたのに、いつのまにか、良寛さんのファンを作ってしまった。

 これはすごい。

 やはり良寛さんがただの逃避者ではなく、確固とした信念をもって生きた人であり、また、お金ではなく、知識、知恵といったものをより敬う気持ちを持っていた庶民との間に生まれた幸せな関係だったのかもしれません。

 本書は良寛さんや彼のことを書いた文章を通じて、著者自身が現代人に生きる知恵を学んでほしいとまとめられたものです。

 「草堂集」 や歌集などからたくさんの言葉をわかりやすい現代語に翻訳して引用されています。

 実は私はこういう本は苦手で、読み終わっても全体としてとらえることができていませんので、この本がどうだったかという評価をすることはできません。

 でも、いくつか心に残った文章があるので、自分のために書き留めておきたいと思います。

 

 盗人に取り残されし窓の月

 

 貧しい良寛の庵に泥棒が入り、なにもないので良寛が寝ていた敷布団を剥いで持って行った。もともと何もない庵に残ったのは窓の月だけだという句。

 今、流行の「断捨離」本にも良く書かれていますが、何ももたないというのは、これほど人の心を穏やかにするものなのかと思いました。

 

 物事に疎い者は琴柱(ことじ)をにわかで固めたように融通がきかないであくせくし、物事にさとい者は、その根源を知りぬいたと誇り、行ったり来たりでむだな時間を過ごしている。こうしたふたつのやり方を捨てて、とらわれることなき者を、はじめて悟った人というのである。(草堂集)

 

 私には遠い、悟りへの道・・・。

 

 さびしさに草の庵を出てみれば 稲葉押しなみ秋風ぞ吹く

                             (良寛全歌集)

悟りも迷いも同じことだという言葉も紹介されていましたが、悟っていても、人里離れた庵で一人で暮らすのはさびしい。素直にそのことを表現している句が美しいと思いました。

 

 すでにその人の考えを理解したならば、そこで静かに判断してみなさい。どちらが劣っているか、どちらが優れているか。また誰が正しくないか、誰が正しいかを。劣っている点を取り去り、優れている点について、誤りを捨て、正しきに従い、次第にそのようにしてゆくと 、やがては仏の知恵にきっと合うであろう。(草堂集)

 

 この文章よりも実はこの後に著者が書かれている怒りについての言葉を、自分の戒めにしようと思いました。

 

 怒りのもとは、他への過剰な期待と「こうあるのが当然だ」という思い込みである。それが感情的に詰まった状態で放出されるのが「怒気」である。

 相手の立場と状況について、温かい理解と同情の気持ちを失うと、怒りが噴出する。それは怒る側のジコチュー(自己中心)の「きめつけ」「おもいこみ」が一方的に空転するだけで、怒ったからといって何の進展もなく解決には結びつかない。むしろ、怒りをぶつけることにより、予想以上の取り返しのつかない悪い事態となる。

 

 気の短い私は、気をつけなければ・・・。

 この間、大臣になって9日目で自分の言葉により辞任することになったあの人にも聞かせたい。

 

 よいとかよくないとかの判断は、はじめから自分自身においているが、真理の道はもともとそのようなものではない。たとえるなら自分の持つ短い竿で深い海の底を測るようなもので、ただその場逃れの愚かな行いだと思う。(草堂集)

 

 

 知識を得るということは、ほかの人より少し長い竿を持つだけのことなのかもしれません。どちらにしても海の底にははるかに届かない。原発を巡る今の状況で、多くの専門家や知識人が出てきているが、お互いに面と向かって議論ができないのだという。このことが一番の不幸かもしれない。双方が自分の竿こそ長いと思っているから。

 

 いかなるが苦しき者と問うならば 人をへだつる心と答えよ

       (良寛全歌集)

 

 へだたれるものではなくへだつるものの心が苦しいんですね・・・。

 

 もう少し、良寛さんのこと知りたくなってきました。

 

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核がなくならない7つの理由 春原 剛

2011-07-02 | 評論
核がなくならない7つの理由 (新潮新書)
春原 剛 著
新潮社

 

 核がなくならない7つの理由として挙げられていたのは以下。

 理由1 「恐怖の均衡」は核でしか作れない

 理由2 核があれば「大物扱い」される

 理由3 「核の傘」は安くて便利な安全保障

 理由4 オバマに面従腹背する核大国

 理由5 絶対信用できない国が「隣」にあるから

 理由6 「ゆるい核」×「汚い爆弾」の危機が迫る

 理由7 クリーンエネルギーを隠れ蓑にした核拡散

 

 タイトルも章立ても、1つの結論に向かって整理されているように見えるのですが、、軍事にも国際関係にも全く疎い私にはすべては理解できず、ちょっと自分の頭の整理のために、軽く読み直してみました。

 

 理由1は、戦後の核をめぐる米ソの戦略、政略の経緯を丁寧に説明してあるが、だから、将来はなくならない理由というの論理自体はわからないことはないが、ちょっと弱い。

 理由2の、北朝鮮とミャンマーに対する、米国の対応の違いを見ればあきらかという理屈は、わからなくもない。

 理由3は、これも、日本や韓国といった国は、核保有国ではないが、アメリカの核の傘の下にいて、ヨーロッパの各国も同じということを説明されているが、「便利」はともかく、「安い」というところへの説明があまりなかったような気がする。

 理由4 もう、何が書いてあったかも思い出せない・・・。読み直す気にもなれない。(汗)

 理由5 ここはとてもわかりやすい。米ソは関係ない、紛争の種のある地域で、隣の国が持っているなら自分の国も持っておこうというわけ。隣の国が放棄しないのに、自分たちから放棄することはないということで、インドとパキスタンや、イスラエルとイランなどの事情をあげている、理由1の歴史は、米ソが東西国家の代表として核の軍拡を繰り広げたが、これの地域限定版。

 理由6 米ソの核兵器削減や、核不拡散条約などにより、戦略的な核の生産や保有数拡大は難しくなったが、旧ソ連の核兵器や技術者などが世界に拡散しているということで、ここもわかるような気がしました。

 理由7 よく言われている、原発が世界に広まるということは、核兵器を作るために必要な、プルトニウムの濃縮技術が世界に広がるということ。

 

 でも、結局、「何故なくならないのか」という理由として、ああその7つだったね!とスッキリできない。

 これは、たぶん、自分の読解力と予備知識の無さは置いておいて、やはりタイトルと、本の内容のミスマッチがあるのではないかなぁと思います。

 とてもまじめに取材されて、経緯などを丁寧に書かれているところは好感が持てるのですが、私のような素人でも飽きずに最後まで興味を持って読ませるための努力が少し足りないような気がしたのです。

 もちろんお前のような素人を相手にしていない! というのであれば、それはそれで仕方がないのですが、それにしては、「新書」というメディアを選んだことや、キャッチーなタイトル、目次のまとめ方などが、ビジネス書のようで、素人に訴えかけるような作りで、やっぱり想定読者と、本の作りがミスマッチ。

 とはいえ、得るものがなかったということは全然ありません。

 まず、最初に驚いたのが、オバマ大統領の核廃絶演説に到る背景に、キッシンジャーがいたということ。

 また、北朝鮮の核に対するアメリカの対応と、ミャンマーを比較してみるという視点。

 もちろん、理由7に挙げられている、原発という核の平和利用と核兵器の関係についても、よく原発反対派の人たちが取り上げておられるのを、「そ~んなこともないでしょう」と思っていたけれど、これが完全な「平和ボケ」だったということも改めて認識しました。

 はっとした言葉は、核テロ問題の第一人者グレアム・アリソン米ハーバード大教授の言葉です。

 

 「核テロ対策は、『おこりそうもない事態を想定する(Think Unthinkable』ことだ」

 

 思い出すのは、やはり東電や原発推進派の人々が、口にする「想定外」という言い訳。

 原子力発電所を持つということは、たとえ核爆弾を持たなくても、核テロに対しては、同じリスクをもつということ。

 アメリカという国のあり方には納得できないことがたくさんあるけれど、原発という存在が、少なくとも彼らにとっては、核テロのターゲットではあったはず。全電源喪失という事態は、自然災害としては考えられなかったとしても、想定外でもなかったはず。

 政府の責任がなかったとは言いませんが、やはり福島の現状は、平和ボケした日本を象徴するものだと、どうしても思考はそちらに向かってしまうのでした。

 

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逝きし世の面影 渡辺京二著

2011-05-20 | 評論
逝きし世の面影 (平凡社ライブラリー)
渡辺京二 著
平凡社

 1900円の本なんて、めったに買わないのだけれど、本屋で、ふっと手に取って、衝動買いしてしまいました。

 帯にあった、江戸文化研究者の田中優子氏の「ここに出現している江戸時代日本に、私は渦に巻き込まれるが如き引き込まれ、酔いしれる」という推薦文に惹かれたのですが、本当に、酔いしれるという言葉の通り、読み終わった今は、甘い夢から覚めたような気分です。

 著者は言います。

 われわれはまだ、近代以前の文明はただ変貌しただけで、おなじ日本という文明が時代の装いを替えて今日も続いていると信じているのではないだろうか。つまりすべては、日本文化という持続する実態の変容の過程にすぎないと、おめでたくも錯覚してきたのではあるまいか。

 実は、一回限りの有機的な個性としての文明が滅んだのだった。それは、江戸文明とか徳川文明とか俗称されるもので、十八世紀初頭に確立し、十九世紀を通じて持続した古い日本の生活様式である。

 文化は滅びないし、ある民族の特性も滅びはしない。それはただ変容するだけだ。滅びるのは文明である。つまり歴史的個性としての生活相対のありようである。

 

 そして、

 

 滅んだ古い日本文明の在りし日の姿を偲ぶには、私たちは異邦人の証言に頼らねばならない。

 

 として、江戸末期から明治初めにかけて来日した主に欧米人の著者を通じて、当時の日本人の”生活相対のありよう”を描き出しているのが本書の内容です。

 

 そこで描かれる日本人ののびやかで、活き活きとしている姿や風景の美しさに、確かに私たちが失ったものを考えさせられると同時に、江戸時代や、明治維新についての認識を新たにさせられました。

 

 何もない本当にシンプルな家、混浴の習慣、社会全体で子供を甘やかしているのではと思えるほど子供が王様なのに、ある年をすぎれば、皆礼儀正しい大人になっていること。女性は抑圧されておらず、父親が子供をあやしている姿も頻繁に目にするし、外国人とみれば、みんなが集まってきてからかう。

 

  貧しいけれど、生活を楽しんでいる様子がうかがい知れます。

 

 読んでいて羨ましくてたまらないのです。

 

 私は近代以前の文明と現代は1945年を境に断絶があるのだと思っていました。

 

 けれど、それより前の明治維新を境に、文明の断絶があったのですね。開国によってもたらされたのは、産業革命後の資本主義社会と、それを支えるプロテスタント的価値観。

 

 例えば、おしんの子供時代が悲惨だったのは、江戸時代の農村の様子となんら変わらず、戦後の農地解放により日本の農民がやっとまともな暮らしができるようになったと思っていましたが、どうもそういうわけではなさそうです。もしかしたら、おしんは、日清、日露戦争による国内の疲弊の象徴だったのでしょうか。

 

 著者の指摘を正しく理解しているかどうか自信はありませんが、私自身、歴史は前に向かって進歩しているものだと、なんとなく考えていました。つまり人類は”進歩”していると思い込んでいたのです。

 

 しかし、そうではなく、歴史はある文明が生まれ育っては滅び、という繰り返しでしかなく、確かに科学は進歩し、近代にいたって”生産力”が飛躍的に伸びたことは間違いないのですが、その裏で滅び去った文明の中で、生きていた人たちに比べて自分たちの方が恵まれているだなんて、どうしてそんな風に思いこんだものか・・・。

 

 本書を読んでいると、この時代の日本人の何も持たないが故に、軽やかに生も死も受け入れ、大きな災難にもしなやかに対応する姿に、当時の異邦人と同じ気持ちで、感動せずにはおられませんでした。

 

 東日本大震災のあと、自然の脅威を見せつけられ、人の傲慢さの極致ともいえる、原子力に牙をむかれ翻弄されている今の日本で、将来を考えるうえで、まず過去をもう少しきちんと理解するために、これほどの最適な本はないと思います。

 

 しかし、日本人というのは、外国からどう見られているかというのをよくよく気になる国民性だと思っていたのに、悪く言われた話は語り継がれるのに、これほど日本人のことを褒めてくれた人たちがいたのに、こういう著作は、あまり語り継がれないんですねぇ・・・・。不思議な国民だわ。(といって、わかる気がする私も日本人です)

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錯覚の科学 クリストファー・チャブリス ダニエル・シモンズ共著

2011-03-26 | 評論
錯覚の科学

クリストファー・チャブリス

ダニエル・シモンズ共著

木村博江訳

文藝春秋

 

  人は、日常的に錯覚をしている。

  しかしそのことに気が付かないのは、その錯覚がもたらす結果が命にかかわるというようなことがあまりないからなのですよね。

  著者たちは、人の錯覚を本書の中で6つに分けて説明しています。

  Ⅰ注意の錯覚

   あることに集中していると自分の視界の中で起こっていることでさえ簡単に見落としてしまう

  Ⅱ記憶の錯覚

   見聞きしたことが、いつの間にか自分が経験したことになって記憶されている

  Ⅲ自信の錯覚

   人は、自信満々に話す人の言うことをより簡単に信じてしまう。

  Ⅳ知識の錯覚

   わかったつもりになってしまう。

  Ⅴ原因の錯覚

   相互関係を因果関係と思ってしまう。

  Ⅵ可能性の錯覚

  子供にモーツァルトを聞かせれば頭がよくなるといった類のことを信じてしまう

  どれも、あるある・・・という内容です。

 自分の感覚や記憶がいかにあてにならないかということはいくつかの本を通じて知識としてはある程度インプットしていたので、この本に書かれていたことがすごく目新しかったということではないのですが、この本では、錯覚が引き起こした事件などが具体的にあげられているので、とても興味深く読みました。

 えひめ丸に気づかず急浮上してしまった、米軍潜水艦船長の話を持ち出すまでもなく、私たちは見たつもりで見ていないことはしょっちゅうあります。また、いい加減な話を自信満々にしてしまってあとで恥ずかしくなること。また、少し考えればわかることなのに、自信満々に説明されると、つい信じてしまうとか。 

 そういう心理を利用した詐欺が後を絶たないのも、そういう錯覚が、個人の性格や能力の問題ではなくて、人間の性向として、ある種仕方がないことなんですよね。とにかく、私たちは、知ってるつもりで知らない、わかったようでわかっていない、見ているようでみていないということを、しっかり認識して、大切な判断をするときは、気を付けようねというのが本書の趣旨のようです。

 いわば、”無知の知” ですね。

 とはいえ、最後の、”可能性の錯覚”で、サブリミナル効果や脳トレも効果が実証されていないので、これも”錯覚”と言ってしまうのは、少し疑問を持ちました。複雑系の人間の心理を、そんなに簡単に、分析できるものかなぁ・・・と。

 それに、この本を読んでいると、たとえば犯罪捜査で、被害者や目撃者の証言なんて、あっても無駄だなぁって思えてきます。

 また、”歴史の証言者”なんて、ヒロイックな言葉にも要注意が必要ってことで。ってなことを考え始めるといったい、何を信じて生きればいいんだろうという気にもなってきて、やや混乱もする一冊でした。

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ミミズの話 エイミィ・スチュアート著 今西康子訳

2011-03-26 | 評論
ミミズの話

エイミィ・スチュワート著

今西康子訳

飛鳥新社

 

 まず、表紙に印刷されていた原題 ”The Earth Moved: On the Remarkable Achivement of Earthworms"  というの見て、ミミズが英語で、"Earthworm" というのを知って、ちょっとびっくり。

 ”地球虫?”、もうちょっと一般的にして”大地虫?” って、あの気持ち悪い生き物には大層な名前だなぁと思ったのですが、この本を読んですっかり認識を新たにいたしました。

 カバーに、ダーウィンの

 ”この生物以上に、地球にとって大事な役割を果たし続けていた生物がいくつも存在しているとはちょっと考えられない”

 という言葉が印刷されていますが、ほんとお見逸れしました。

 (ちなみに、ダーウィンが晩年ミミズにのめりこんでいたということも知りませんでした。)

 正確な言い方ではないと思いますが、イメージとしてはミミズは土中に住み、土の表面に落ちてきた落葉や小さい虫などの有機物を土ごと食べて、分解して糞として排出する。その糞が肥やしになって、植物などをはぐくむ。また土中に穴を掘って動くので、土壌の通気性、通水性も改善する・・・という感じでしょうか。

 これぞ究極の循環型社会!

 本書にあったエピソードですが、ミミズは死んだあとの分解が24時間以内くらいに行われるようで、自然の状態では殆どミミズ自体の死骸は見当たらないそうです。真夏のアスファルトで干上がったミミズを良く見かけたものですが、やはり土の無いところではそうはいかないんでしょうね。まさにEarthwormですね。

 とはいえ、外来種のミミズが繁殖したために、生態系が破壊されてしまって危機に瀕している森もあるようで、エコ!といって簡単に人間が利用できるというようなものでもないということも紹介されていました。

 やっぱり生物を自分たちの都合で利用しようなんて、人間のエゴだなとつくづく感じたのかなと思いきや、ミミズの害に触れたその章の後は、殆どそのことには触れず、ミミズを使った環境改善や下水処理のプロジェクトなどに積極的に参加されている様子なのにはちょっと疑問も持ちました。

 アメリカ人らしいな・・・という気もしましたが、 著者は、生物学者や環境に関する研究者ではなく、自分の庭で、ミミズを使った堆肥作りを始めたことからミミズに興味をもって、いろいろ調べるようになったようです。ということで、ちょっと中途半端な読み物になっている感は、否めませんが、とにかく、ミミズに関する見方、そして土の中の世界に対する目を開かせてくれる一冊ではあると思います。 

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グーグル秘録 完全なる破壊 ケン・オーレッタ

2011-03-07 | 評論
グーグル秘録
ケン・オーレッタ
文藝春秋

 

 ウェブ進化論を読んで、結構な衝撃を受けてから、5年。 あっという間でした。

 その時の記事で、

 「これからはじまる『本当の大変化』は、着実な技術革新を伴いながら、長い時間をかけて緩やかに起こるものである。短兵急ではない本質的な変化だからこそ逆に、ゆっくりとだが確実に社会を変えていく。『気づいたときには、いろいろな事がもう大きく変わっていた』といずれ振り返ることになるだろう。」(ウェブ進化論 梅田望夫)

 という著者の予言を、書き留めていましたが、このグーグル秘録を読んで、改めて見直してみると、「長い時間をかけて緩やかに起こるものである」という言葉通りにはなっていないようです。

 本書は、グーグルが設立された1998年から出版された2009年までを、多くの関係者のインタビューから得られた情報とともに、詳しくたどっているため、スティーブジョブズや、ビルゲイツ以外の名前には全くなじみがない私には、カタカナの名前の氾濫にタジタジでしたが、それでも、超現代史を読んでいるような、妙な興奮を感じながら読んでしまいました。

 グーグルというのは、技術者集団であり、技術万能という意識が強いことを著者は何度も繰り返し述べています。

 技術に裏付けされた彼らのアイデアは、既存の利益配分という意味での社会秩序を覆すもので、既に新聞社やテレビなどのメディアは、顧客を奪われ始め、グーグルへの批判が高まってきているのだけれど、グーグルは、最終的に自分たちが良いものを提供していけば、人々はそれを支持するという 「群衆の叡智」を信じ、既得権者からの圧力を歯牙にもかけていないようです。

 確かに、私自身を含めて、多くの人は、自分が検索した時に、ちょっとした広告が一緒に表示されることを気にしなければ、あらゆる情報が、無料で手に入るこの便利さを支持するでしょう。

 しかし、検索結果をお金で左右したりすることで、情報を操作するような、”邪悪”なことをしないこというグーグルの創業精神を信じるとしても、著者が言うように、それがこの先かわらないという保証はないのです。

 逆に、検索結果はグーグルの利益に支配されないとしても、ネット上のすべてを検索できるということは、別の見方をすれば、私たちユーザのネット上の振る舞いもひとつの情報としてデータベース化しているということなんですよね。

 近所の市場で現金で買い物をしていた時は、私がどんな食べ物が好きで、どんな本を読み、どんなところに旅行に行ったかなどを知っている人は、ごく限られた人だったけれど、今では、海外にあるかもしれないコンピュータにそんな情報が蓄積されているかもしれないなんて、よくよく考えてみれば怖ろしいことです。

 そして、そのデータをもとに、私たちの手元に、より自分の求めている情報が集めやすくなり、そうやって得られた情報をもとに思考をし、行動することを決めていくとすると、そこに自分の意志はどれだけあったといえるのだろうか。

 などなど考え出すと、怖くなってきて、思わず、Cookieの設定を変えてしまった私でした。

 とはいえ、良くも悪くも、アメリカの精神を体現している会社だなぁ・・・。

 

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紀元二千六百年 消費と観光のナショナリズム ケネス・ルオフ

2011-02-16 | 評論
紀元二千六百年 消費と観光のナショナリズム (朝日選書)
ケネス・ルオフ
朝日新聞出版

 

 戦後の教育を受けた私には、全く聞いたことのなかった(実際にはあったとしても全く意識の網にかかっていなかった)”紀元二千六百年”という言葉。

 1940年が、神話上の存在である神武天皇即位から2600年目だとして、国をあげて、いろいろな行事が行われたそうです。

 戦後になって日本では、ある神話が定着するようになる。戦争末期から戦後占領期にかけての悲惨な時期の記憶が、それ以前の時期にもそのままあてはめられ、戦時はずっと暗い谷間の時代だったと記述されるようになったのである。さらに、日本を戦争の暗い谷間へと引きずり込んだとして、漠然としたごく少数の「軍国主義者」を非難することが通例となった。しかし、国民の支持がなければ、全面戦争の遂行などできるわけがないのだから、これは奇妙な言い草だったといえる。

 ”おしん”などのテレビドラマから作り上げたイメージなのかもしれませんが、まさに私は、”大正デモクラシー”の後の日本社会は、とても暗い時代で、殆どの人々は、戦争なんていやだなんて言えず、貧しく、楽しみなど何もなく、ただただ働いているというようなイメージを持っていました。

 そして、最近になって、いろんな本を通じてどうも違うぞ・・・ということが見えてきたところでしたが、本書では、それをより具体的な、消費と観光という題材から示してくれました。

  1940年までの数年間は、紀元二千六百年を盛り上げるために、さまざまな手段が動員されたが、それらは必ずしもお上が仕掛けたものばかりでなく、新聞社や出版社、ラジオなどメディアや百貨店など民間企業が仕掛けたイベントなどが一役も二役もかっていた。また聖蹟を訪ねようという観光ブームもおこり、特に宮崎や奈良に多くの人が訪れた。

 ということらしいですが、なんと奈良にはその年3800万人もの人が訪れたというのですから、殆ど現在のオリンピックや万博並みの盛り上がりです。しかしこの人数だけをみてもそれが、一部の金持ちだけがこういったことを楽しむ余裕がある社会というわけではなかったことをはっきりと示しています。

  また、当時日本が占領していた朝鮮や、多くの日本人が住んでいた満州などへの観光客も、何万人というレベルでいたそうで、本書の関東におさめられていた旅順の観光地図は、今でいう”イラストマップ”と殆ど変らないもの。これらの旅行が、大衆レベルを対象にしていたことを実感として感じることができます。

 著者の指摘で、はっとしたのは、日本には、ヒットラーやムッソリーニのようなカリスマ指導者がいないことをもって、ファシズムではないという研究者も多いが、実在しない”神武天皇”の名のもとに、多くの人が、動員され、それらを崇め、聖蹟を周ることで国民が一体感を強めていった過程に、ファシズムとの共通点が多いという点です。

 よく、ヒットラーやムッソリーニと並んで、日本の役者としては東条英機の名前が出ますが、どうも役不足だと感じていました。国民がトージョーをそこまで崇めていたという話も聞いたことがないし、だからといって、”ヒロヒト”かというと、それもどうもすっきり納得できないものがあったのです。

 それを、実は、日本型ファシズムは、独裁者型ではなく、”万世一系思想”、”愛国心”といった民衆の心理を、資本主義、商業主義的に利用したところから生まれたものかもしれないと考える方が、納得できます。

 しかし、その反面、そうだとすれば非常に怖いものがあります。

 私たちの生活に、ファシズムが近づいてきても、その足音をどうやって聞き分ければいいのでしょうか。

 著者は言います。

 大衆的な過去の記憶形成に果たす史跡観光の役割は、K12教育や、この分野で(両社はしばしば連関しているが)マスメディアが果たしている役割と同じく強い影響力をもっている。したがって、歴史学者が大衆的な歴史記憶のベクトルを論議する際には、史跡観光をしっかりと検討すべきだろう。

  自分が何かを見たい、どこかに旅行したいと思うとき、もう少し、その自分の欲求がどこから湧いてきたのかということに敏感にならなければ、気が付けば、また戦争を支持する大衆になっているのかもしれません。

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