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ポケットの中で映画を温めて

今までに観た昔の映画を振り返ったり、最近の映画の感想も。欲張って本や音楽、その他も。

『ノー・アザー・ランド  故郷は他にない』を観て

2025年03月25日 | 2020年代映画(外国)

『ノー・アザー・ランド 故郷は他にない』(監督:バーセル・アドラー/ユヴァル・アブラハーム/ハムダーン・バラール/ラヘル・ショール、2024年)を観てきた。

ヨルダン川西岸のパレスチナ人居住地区・マサーフェル・ヤッタ。
そこで生まれ育ったパレスチナ人の青年バーセルは、イスラエル軍の占領が進み、村人たちの家々が壊されていく故郷の様子を幼い頃からカメラに記録し、世界に発信していた。
そんな彼のもとにイスラエル人ジャーナリスト、ユヴァルが訪れる。
非人道的で暴力的な自国政府の行いに心を痛めていた彼は、バーセルの活動に協力しようと、この村にやってきたのだった。

同じ想いで行動を共にする2人。
しかしその間にも、軍の破壊行為は過激さを増し、彼らがカメラに収める映像にも、徐々に痛ましい犠牲者の姿が増えていくのだった・・・
(公式サイトを修正)

手持ちカメラやスマートフォンを駆使して、2023年10月までの4年間のマサーフェル・ヤッタの現状を記録したドキュメンタリー。
そこに写し出されるのは、イスラエルの軍事訓練場に使用するという名の占領目的のために行われる、パレスチナ人の強制立ち退きと徹底した村の破壊。

平然とブルドーザーで家を破壊し、小学校も破壊する。
井戸にコンクリートを流し込み、水道や電線を切断する。
村人は抗議をするが銃を持つ兵に為す術もない。
イスラエル兵は抗議をうるさく思えば気ままに銃の引き金を引くことができる。

そればかりではない。
丘の上にはこぎれいな家が並んで建っている。
そこから、兵に守られたイスラエル入植者たちが銃を持ってやって来る。
この入植者たちも発砲する。
そしてパレスチナ人は地に倒れる。

このようにしてパレスチナ人は昔から住み慣れた土地を奪われ、
行き場を失った人々は石窟に身を寄せるしかない。
なんと理不尽なことか。

ガザでは、2023年10月の戦闘以降、5万人以上の死者が出ている。
負傷者は倍以上で行方不明者も1万人以上である。
原因がハマスにあるとしても余りにも悲惨な大量虐殺である。

過去に民族虐殺された歴史の中にありながら、権力の中枢にいる者はそのことになんら教訓も得ていない。
このことは何もイスラエルだけのことではない。
世界のあちこちで独占的権力者が狂気を振りまいている。
若い頃、人間は歴史の流れの中で知性とか人間性が発達すると楽天的に考えていた。
しかし、そうではないらしい。
この作品を観て、つくづくそう思った。そこが悲しい。


『教皇選挙』を観て

2025年03月21日 | 2020年代映画(外国)

『教皇選挙』(エドワード・ベルガー監督、2024年)を観てきた。

ローマ教皇が心臓発作で急逝し、新たな教皇を選出するためのコンクラーベが行われることになった。
それを取り仕切る首席枢機卿のローレンスは、悲しみに暮れる間もなく慌ただしい準備に追われ、世界各国から100人余りの枢機卿がバチカンに集結する。
有力候補たちがしのぎを削る選挙戦は混戦模様となり、1日目と2日目に4回の投票を重ねても必要獲得票数の72を得る者はいなかった。
しかもリベラル派と保守派の思惑が交錯するなか、思わぬスキャンダルや陰謀の発覚によって有力候補が次々と脱落する異例の事態になっていき・・・
(パンフレットより)

厳重に閉ざされたシスティーナ礼拝堂の扉の中で行われるコンクラーベ(教皇選挙)。
そこへの立ち入りは禁止され、外部からの介入や圧力を徹底的に遮断する選挙の舞台裏は、一部の関係者しかわからないという。
そんな選挙舞台の内側をドラマ化して見せてくれるので興味津々。
それはあたかも聖職者たちによる政治的選挙のごとくであり、メリハリの効いたストリングスの演奏効果とともにスリリングに物語りが進んでいく。
このような室内劇は、演じる俳優たちが命の綱であり、静かに抑えた物腰の中で身にたぎる内情をそれぞれの個性で際立たせて飽きさせない。
と言っても初めの辺りは、同じ服装の聖職者たちの人物と名前が判然とせず戸惑ったりもしたが、それも観ているうちに自然と解消されて行った。

見終わってみれば、男性社会のカトリック聖職者に対する問題意識もやんわりと提起されているなと理解でき、それも含めてとても満足できる作品であった。


『ANORA アノーラ』を観て

2025年03月10日 | 2020年代映画(外国)

『ANORA アノーラ』(ショーン・ベイカー監督、2024年)を観てきた。

ニューヨークでストリップダンサーをしながら暮らす“アニー”ことアノーラは、職場のクラブでロシア人の御曹司、イヴァンと出会う。
彼がロシアに帰るまでの7日間、1万5千ドルで“契約彼女”になったアニー。
パーティーにショッピング、贅沢三昧の日々を過ごした二人は休暇の締めくくりにラスベガスの教会で衝動的に結婚!
幸せ絶頂の二人だったが、息子が娼婦と結婚したと噂を聞いたロシアの両親は猛反対。
結婚を阻止すべく、屈強な男たちを息子の邸宅へと送り込む。
ほどなくして、イヴァンの両親がロシアから到着して・・・
(公式サイトより)

カンヌやらアカデミー賞で賞をいっぱい取ったので、さぞかし素晴らしいだろうと期待して観に行ってきた。
結果は期待外れだった。
18禁映画だから裸やセックス場面は想定していたのでそのことはいい。
そして演じている俳優たちも役に徹していて雰囲気も素晴らしい。
おまけにコメディぽくもあって場面場面が楽しい。
それでも余り評価できないのは、物語りの内容が単純過ぎて、こちらの思い通りの展開でそれでお終い。
要は筋書きに深みがなくって、だからワクワク、ドキドキ感もなくってこちらは途中で疲れてしまった。
つまり、面白いんだけどチョットなぁというやつ。
そう思って見ていると、上映時間も長くってなぁと感じた。

そんな印象の映画だったので、この作品についてはこれでお終い。


『愛を耕すひと』を観て

2025年03月06日 | 2020年代映画(外国)

『愛を耕すひと』(ニコライ・アーセル監督、2023年)を観てきた。

18世紀デンマーク。
貧窮にあえぐ退役軍人のルドヴィ・ケーレン大尉は、貴族の称号を懸け、ひとり荒野の開拓に名乗りを上げる。
しかし、それを知った有力者フレデリック・デ・シンケルが自らの勢力が衰退することを恐れ、ありとあらゆる手段でケーレンを追い払おうと躍起になる。
襲い掛かる自然の脅威とデ・シンケルからの非道な仕打ちに抗いながら、彼のもとから逃げ出した使用人の女性アン・バーバラや
家族に見捨てられた少女アンマイ・ムスとの出会いにより、ケーレンの頑なに閉ざした心に変化が芽生えてゆく・・・
(オフィシャルサイトより)

正直、深く胸に突き刺さる作品だった。

退役軍人であるケーレン大尉は、耕作不能であるとされてきたユトランド半島のヒース(荒地)の開墾を財務省に願い出る。
その広大なヒースの開墾は、貧困な生まれから大尉に登りつめたケーレンにとって貴族の称号に繋がる唯一の道であった。

過酷な自然の脅威と闘いながら不毛な土地と対峙する寡黙なケーレンには、更なる障害が待ち受けることになる。
近隣の領主デ・シンケルが領有権を主張し、行く手を阻んでくる。

前半の重苦しい流れの中で、このまま観ることに耐えられるかと不安もよぎったが、
物語りが、デ・シンケルから逃げてきた元使用人夫婦ヨハネスとアン・バーバラや、
鶏を盗みにくるタタール人の少女アンマイ・ムスが絡みだす辺りから、いつしか時間を忘れてその内容に身を委ねていた。
そして、その後の展開の中で、グイグイとクライマックスに向かって幾重にも重層的に引っ張られていく。

孤独で寡黙な執念の持ち主が愛に目覚め、徐々に人間的な厚みをなしていく様が手に取るようにわかる。
それをマッツ・ミケルセンが演じる。正しく適役である。
マッツ・ミケルセンは『アナザーラウンド』(トマス・ビンターベア監督、2020年)で印象深かったが、この作品によって彼の表情はもう忘れることがないと思う。
こんなに感動できる作品に出会えたことに感謝したい。


『セプテンバー5』を観て

2025年03月04日 | 2020年代映画(外国)

『セプテンバー5』(ティム・フェールバウム監督、2024年)を観てから、もう2週間経ってしまった。

1972年9月5日。ミュンヘンオリンピックの選手村で、パレスチナ武装組織「黒い九月」がイスラエル選手団を人質に立てこもる事件が発生した。
そのテレビ中継を担ったのは、ニュース番組とは無縁であるスポーツ番組の放送クルーたちだった。
エスカレートするテロリストの要求、錯綜する情報、機能しない現地警察。
全世界が固唾を飲んで事件の行方を見守るなか、テロリストが定めた交渉期限は刻一刻と近づき、中継チームは極限状況で選択を迫られる・・・
(映画.comより)

早朝、銃声らしき音が聞こえたABCのテレビカメラクルー。
本来、報道班が行なう報道を、事件発生場所のミュンヘンオリンピック担当班が実況中継を行なうために本国とやり取りし、
そして、事件の全体を把握することができないまま、すぐそこで起きている事実を自分たちの判断で生中継していく。

「黒い九月」によるイスラエル選手団人質テロ事件。
オリンピック開催中での選手団11人が人質となり、この時点で2人が殺害されている。
その歴史的事実の再現。
それをテレビクルーが常駐するコントロールルームの一室を中心に描く。
だから事件そのものの全容は直接見えない。
そこにあるのは、刻々と過ぎていく時間の流れの中の緊迫感。

クルーたちはライブゆえに常に緊張を強いられる。
それを観ている我々観客も同感覚を体験させられ、その空気にドップリと浸かることになる。
そして、一日の時間は瞬く間に過ぎていく。

テロ事件の全世界向け実況生中継。
テレビクルーが行なう実況放送は犯人たちもテレビでそれを見ている。
情報が筒抜けであることに対して、果たして報道の自由とは何か、それに対する責任はどうなるのか、との問題提起が滲み出る。

この作品から受ける感覚は、歴史的事件報道の緊迫したやり取りは十分に堪能できるが、
視点が一室をメインとしているため外で起きている事件の客観性がぼやけ、そこが少し物足りない印象として残る。

それにしても私が20代前半の時のミュンヘンオリンピック。
オリンピックにそんなに興味があったわけでもなかったのか、最悪の結果を迎えることになるこの事件のことは左程印象に残っていない。
後々に、「黒い九月」を扱った『ブラック・サンデー』(ジョン・フランケンハイマー監督、1977年)をビデオで観てから多少関心を持ったが。