戸田智弘さんという方が、世界の寓話をやさしく解説してくれました。
とてもためになると感じます。
折に触れ、紹介していきたいと思います。
◆六人の盲人と象
ある日六人の盲人が、象を触ってその正体を突きとめようとした。
一人目の盲人は、象の鼻に触り、象とはヘビのようなものだと言った。
二人目の盲人は、象の耳に触り、象とはうちわのようなものだと言った。
三人目の盲人は、象の足に触り、象とは木の幹のようなものだと言った。
四人目の盲人は、象の胴体に触り、象とは壁のようなものだと言った。
五人目の盲人は、象のしっぽに触り、象とはロープのようなものだと言った。
六人目の盲人は、象の牙に触り、象とは槍のようなものだと言った。
それから、六人の盲人たちは長いこと大声で言い争い、それぞれが自分の主張を譲らなかった。
盲人それぞれが触ったのは、象の身体の一部分にすぎない。
それにもかかわらず、それぞれの盲人たちは、その一部分こそが象の正体だと思い込んでいる。
彼らの発言は、部分において極めて正確である。しかし、現場は大混乱をきたすことだろう。
我々は、この盲人たちを笑えない。
というのも、我々は物事や人物の一部分だけを理解して、それが物事や人物のすべてだと錯覚してしまうことが
ままあるからだ。
神ではない人間が把握できるのは、全体の一部分にすぎないのだから、木を見て森を見ず状態になるのは、
ある意味で仕方ないとも言える。
それでもできるだけ一面的にならず、多面的に物事や人物をとらえることが必要なのだ。
言葉を変えれば、視野を広げ、多面的に物事を捉えようということだとも思います。
さらに付け加えれば、部分の総和は必ずしも全体にはならない、ということです。
その意味で、企業運営や組織運営において、全体を俯瞰して見られる能力が必要なのは言うまでもないことなのでしょう。
とてもためになると感じます。
折に触れ、紹介していきたいと思います。
◆六人の盲人と象
ある日六人の盲人が、象を触ってその正体を突きとめようとした。
一人目の盲人は、象の鼻に触り、象とはヘビのようなものだと言った。
二人目の盲人は、象の耳に触り、象とはうちわのようなものだと言った。
三人目の盲人は、象の足に触り、象とは木の幹のようなものだと言った。
四人目の盲人は、象の胴体に触り、象とは壁のようなものだと言った。
五人目の盲人は、象のしっぽに触り、象とはロープのようなものだと言った。
六人目の盲人は、象の牙に触り、象とは槍のようなものだと言った。
それから、六人の盲人たちは長いこと大声で言い争い、それぞれが自分の主張を譲らなかった。
盲人それぞれが触ったのは、象の身体の一部分にすぎない。
それにもかかわらず、それぞれの盲人たちは、その一部分こそが象の正体だと思い込んでいる。
彼らの発言は、部分において極めて正確である。しかし、現場は大混乱をきたすことだろう。
我々は、この盲人たちを笑えない。
というのも、我々は物事や人物の一部分だけを理解して、それが物事や人物のすべてだと錯覚してしまうことが
ままあるからだ。
神ではない人間が把握できるのは、全体の一部分にすぎないのだから、木を見て森を見ず状態になるのは、
ある意味で仕方ないとも言える。
それでもできるだけ一面的にならず、多面的に物事や人物をとらえることが必要なのだ。
言葉を変えれば、視野を広げ、多面的に物事を捉えようということだとも思います。
さらに付け加えれば、部分の総和は必ずしも全体にはならない、ということです。
その意味で、企業運営や組織運営において、全体を俯瞰して見られる能力が必要なのは言うまでもないことなのでしょう。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます