和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

人の言葉の散りやすさ

2024-05-25 | 安房
流言蜚語から、私は岸田衿子の詩の2行を思い浮かべます。

    人の言葉の散りやすさ
    へびと風との逃げやすさ

それはそうと、散らずに言葉をささえるという事例を以下に示すことに。

「安房震災誌」に、関東大震災の9月3日の晩の出来事が書かれています。

「 9月3日の晩であった、北條の彼方此方で警鐘が乱打された、
  聞けば船形から食料掠奪に来るといふ話である。

  田内北條署長及び警官10数名は、之を鎮静すべく
  那古方面へ向て出発したが、
  掠奪隊の来るべき様子もなかった。

  思ふに是れは人心が不安に襲われて・・・・
  何かの聞き誤りが基となったのであろう。  」(p220~221)

これに安房郡長大橋高四郎は、どう対処したのか

「 すると、郡長は、
 『 食料は何程でも郡役所で供給するから安心せよ 』
 
  といふ意味の掲示をした。可なり放胆な掲示ではあるが、
  将に騒擾に傾かんとする刹那の人心には、
  
  此の掲示が多大に効果があったのである。
  果して掠奪さわぎはそれで沮止された。  」(p221)

この大胆な掲示内容を守るべく、郡長は食料調達へと
力を注いでゆくことになります。

「 郡当局は、一方県に急報して、食料の配給を求むると同時に、
  他方旧長狭に駐在してゐた県の耕地整理課技手齋藤正氏に嘱託して、
  同地方の米を買収して、鴨川より海路北條に輸送するの計画をした
  ところが、米の買収は中々困難であった。

  それは、何時又重ねて大地震の来るかも知れないといふ懸念と、
  交通杜絶の為めに、今米をはなせば、生命をつなぐ途が絶える
  と悲観したからであった。

  ―― 此の時 徴発してはどうだ。 と、いふ話もあったが、
     郡長は頭からそれに反対した。それは、唯でさへ
     
     人心恟々たる折柄に、徴発でもやったら、
     事態容易ならぬこととなるからであった。 ――  」(p261)


ここで、『徴発してはどうだ』という意見に
安房郡長は「頭からそれに反対した」とあるのでした。

安易な徴発が、さまざまに容易ならぬ事態を招くことを
郡長はきっと、経験知からして、判断を下していたのかも知れません。

たとえば、『米騒動』にかぎってみてゆくと、
「 騒動の第一期すなわち前駆期の事件のいちじるしい特徴 」
 が記録されているのでした。

「・・・富山県下のそれや岡山県の津山町、林野町、
 広島県の三次町、和歌山県の湯浅町などのように、
 自町村の米を他へ移出することを禁止する要求が
 事件のきっかけとなっている場合である。     」
         ( p105 「米騒動の研究」第一巻・有斐閣 )


うん。ここは、歴史的地理的に『米騒動』をめくってみます。
1918(大正7)年の米騒動は、
「それは、7月22日の富山県下新川郡魚津町の漁民の主婦たちの集会にはじまり、9月17日福岡県嘉穂郡明治炭坑の暴動で一応おさまるまで、
 すべての大都市、ほとんどすべての中都市、全国いたるところの
 農村、漁村、炭坑地帯など、一道三府三八県、およそ500ヵ所以上・・」
        (p1 「米騒動の研究」第一巻 )

この「米騒動の研究」第3巻には、千葉県の事例が新聞の記録から
とりあげられておりました。
安房郡勝山町と安房郡湊村とがとりあげられております。
ここには勝山町の記述を引用してみます。

「勝山町および船方町(船形?)では、
『 漁師の女房連も寄々町役場に話かけて、救護を願い出たるが 』
                    (万朝報、8・20)
『 ・・・形勢不穏の状を呈したれば、19日』(大阪朝日、8・21)
 朝、『成本北条署長は部下を従えて』(万朝報、8・20)、
『 同地へ急行し、その善後策を講じたるがため、平静に復せり 』
                  (大阪朝日、8・21)     」
                 ( p380 「米騒動の研究」第3巻 )


もどって、
『 食料は何程でも郡役所で供給するから安心せよ 』
といふ意味の掲示をした郡長の、そのあとも
「安房震災誌」に記述がありますので、
最後にそちらも引用しておきます。
安房郡内で米を現金で買入をしてからのことです。

「斯の如くにして、僅に集めた米は、
 焦眉の必要に応じて、それからそれへと配給して行ったが、
 
 日を経るに従って欠乏甚だしく、
 7日の夜に至っては、全く絶望状態に陥った。

 殊に・・『 食料は何程でも郡役所で供給するから安心せよ 』といった、
 各所に掲げた掲示で、人心を安定に導いてゐる刹那のことである。
  ・・・・・・・・・・

 郡長は・・翌8日の払暁、鏡丸に乗じて上県し、
 つぶさに郡民の窮乏を訴へ、而かも米の欠乏甚だしきを以て、
 直ちに米9千俵の急送を懇請したのである。

 すると県も之を容認して、米5千俵を給与するに決した。
 且つ輸送の為めに、館山湾に碇泊中の汽船を徴発すべく
 徴発令2通を交付された。

 そこで、郡長は9日直ちに帰任して、
 汽船2隻を徴発し、廻米の事に従はしめた。
 そして、その翌10日であった。
 突如、県よりは更らに米1千俵、増加配給する旨を通達された。
 此の通達は勅使御差遣あらせられた前日のことであった。

 震後人心に強い脅威を与へた食料問題も、是に至って
 漸くその眼前の急より救はるることを得たのである。  」
                (p262 「安房震災誌」 )



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