関東大震災の当時、千葉にいた嶋田石蔵氏は、
安房に歩いて帰郷しております。その途中で
「・・・仲間数人と路線づたいに房州へ向った。
途中曲りくねった路線の上を、余震におびえながら
とぼとぼと歩いた。五井駅付近に来た時、
道往く人に、大島が海の中に沈んで、
房州も陥没して海びたりになってしまったと聞かされた。
でも、まあとに角、
家に帰ろうと勇気をふるい起こして歩きつづけた。
上総湊付近まで来た時、房州は大地震だったが、
海には沈んでいない事が分かった。
途端に腹がへってきて・・・・ 」
( p573~574 「館山市史」昭和46年 )
『房州も陥没して・・』とあるのですが、
『房州は海底に沈んで終って全滅だ・・』と、
こちらは、『ビラ』にあったという箇所がありますので、
こちらも、引用してみます。
「救護船に乗って罹災民捜索隊が『房州小湊』といふ大旗を立て
東京に行き、各避難所を訪問した時、
房州に関係ある避難者に直ぐ尋ねられた。
『 房州は無事でせうか。飛行機の撒いた≪ ビラ ≫によると、
房州は海底に沈んで終って全滅だと書いてあった房州が海底に
沈んで終っては父母兄弟も無事で居ない死んで終ったろうから
何とかして東京で食べて行かなければならないとあきらめて居た 』
と云ったので
房州は海底に沈まない、つぶれた家もあるが無事だ
と話したら、関係者は嬉しなきに泣いた。 」
( p964~965 「大正大震災の回顧と其の復興」上巻 )
これに関して、他のページに罹災民捜索隊の具体的な記述がありました。
そちらには、小湊町から東京へ出ていた人数もでておりますので、
丁寧に引用しておきます。
「 『 東京横浜等の震災地に住居する本村出身及出稼者、奉公人等
の生死をたしかむる為捜査隊出発するにより同地に関係者
ある者は直に其の住所氏名を申出ずる様 』通知せしに
申込殺到し捜査人百八十名を算するに至れり、
震動未だ止まざるを以て、村長助役は野外にて之が処理を為したり、
折から何時海嘯襲来するやも知れず船を出すは危険なり
と云ふ者ありたるも村長は決行することとなり、
総噸数12噸の発動機船若宮丸、田中丸を借受け茲に
決死的乗組員を募集し26名を決定し
米15俵其の他副食物、飲料水を積込4日午後3時
小湊を出帆せしめたり。
船は5日午前10時東京霊岸島に到着、
1班を4名とし5班を組織し乗組員は弁当を腰にして
『 房州小湊 』と大書せる旗を先頭に
『 小湊救護団 』と書きたる輪けさをかけ
丸の内、上野、品川其の他の避難所を訪問し
生存せるものには米其の他副食物を与へ
不明の者は震災当時の住所に赴き建札あるや否やを
調査し建札あるものは其の避難所を訪問して
家族の生死を確め米其の他副食物を救与したり
帰村に際し東京より便乗者50余名あり、
横浜に寄港12名を便乗せしめ横浜を出港
一路小湊に向け8日午後4時海上無事小湊港に帰港したり。 」
( p945~946 「大正大震災の回顧と其の復興」上巻 )