和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

お鉢が廻って来た。

2024-06-20 | 安房
昭和8年に編纂された本の編纂者あとがきに

「・・・電車で本所の被服廠前を通るにも、
  私は心中に黙祷することを忘れないのである。 」

という箇所がありました。
この本の題名は『 大正大震災の回顧と其の復興 』
そのあとに、千葉県庁社会課内・千葉県罹災救護会とあります。

編者の安田亀一氏の「編纂を終へて」のはじまりは

「 千葉県に何の関係もない私が、その震災記録を編纂することになった。
  而してそれが災後8年も経ってゐる(引受けた時)・・・・・

  ・・・このことを甚だ奇縁とし、且つ光栄とするものである。
  あの当時私は大震災惨禍の中心たる帝都に在って、
  社会事業関係の仕事に従事してゐた。

  而も救護の最前線に立って、
  一ヶ月程といふものは、夜も殆ど脚絆も脱がずにごろりと寝た。
  玄米飯のむすびを食ひ水を飲みつつ、
  朝疾くから夜遅くまで駆け廻った。

  頭髪の蓬々とした眼尻のつり上った
  垢まみれの破れ衣の人々が、右往左往する有様や、
  路傍や溝渠の中に転がってゐる焼死体の臭気が、
  今でも鼻先にチラついてゐる。

  電車で本所の被服廠前を通るにも、
  私は心中に黙祷することを忘れないのである。

  そんな関係で、ここに大震災の記録を綴ることは、
  何か私に課せられてゐる或る義務の一部を
  履行するやうな気がしてならない。     」(p978~979上巻)


このあとに、こうあります。

「 一体、本県で震災誌編纂のことは震災直後に定った方針であるらしい。
  が、種々の支障から今日まで之を完成してゐなかった。
  
  既に県の書類なども保存期間が切れて廃棄処分をしたものもあり、
  又やがてその期間に達するものもあって、時の経つと共に、
  だんだん資料が散逸し、折角貴重な文献が喪はれて行く処があるので、
 
  誰も早く記録を取纏めて置き度いとは思ひつつも
  知らず知らず時期を逸した態であった。・・・・・

  ・・・さうした事情の推移から岡社会課長の時代に
  震災義捐金の残で罹災救護会なる組織が出来、
  その団体の一事業として震災誌を編纂することとなった。

  ・・・・永野社会課長の時代になって、
  いつ迄も延々にすることも出来ないので、
  結局私にお鉢が廻って来た。・・・・
  それは昭和6年の9月、秋風の立ち初むる頃であった。 」
                ( p979~980 上巻 )

うん。最後にここも引用しておくことに

「 昭和6年10月、私が本冊子の編纂に指を染めてから
  早や1箇年10ヶ月になる。
  ・・・内容も亦増加して、千頁の予想が2千5百頁になった。
  ・・・やれやれこれで私の心に負はされた義務の一部が解かれたのだ。」
                   ( p984 上巻 )


この資料と『安房震災誌』とで、8月に語る『安房郡の関東大震災』は、
語りは心許なくっても、だんぜん厚みのある資料内容の紹介となります。


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