ふっと、思うのですが、
私がいざ、未曾有の大震災に直面したなら
どのような態度をとるのか?
たとえば、安房農学校の塚越赳夫教諭が
とっさに、どうしていたのか。その様子が思い浮かびます。
「 理科室の内部はみるみる内に真赤な火焔が一杯では無いか。
『 火事だ火事だ 』と呼ぼうとしたが自分の喉からは声がでなかった。」
「・・自分は血の気を失って仕舞った。・・・
こうしてはゐられない。早く救ひ出さなければならぬ。
しかし自分の体は思ふ様に働けなかった。
焦りに焦って唯うろうろしてゐるのみであった。 」
( 以上は、p22~24「安房拓心創立百周年記念誌」より )
私が、大震災の罹災の当事者となった場合に、
まず、自分がするだろう姿は、このようなものだろうなあと思い浮かべます。
さて、そう我が身の姿を思うにつけて
思い浮かぶのは、船形町長正木清一郎氏でした。
船形尋常高等小学校報に掲載された文を読むと、
( これを書いたのは、小学校長のような気がします )。
その文に、震災当日の夜のことが書かれてありました。
「其の夜は翁(正木清一郎)と共に・・・
町の火災の模様を眺め徹夜した。
翁曰く、時に君とんだ事になったね。
町に大部分は倒潰したその上にあの大火災、
純漁村のこの町では町民を活かす事が先決問題だ。
・・・如何にしようかとの御相談・・・
又曰く、ああ咄嗟の場合よい考も出ないが
明朝夜の明くるを待て学校の運動場に行き
町会議員、区長、米穀商を召集し、其の善後策を講じませう。
夜の明くるを待って・・本町在米の調査を到せしに
漸く一日を支へるに足るか否かの米、
程なく直ちに役場吏員を派して、被害僅少といはれる
瀧田村平群村より長狭方面に米の注文をさせ、
為に他の被害地よりも早く米の供給を得、
町民も安堵の色見えたのであった。・・・ 」
( p912 「大正大震災の回顧と其の復興」上巻 )
この未曾有の大震災大火災を前にして
『 時に君とんだ事になったね 』と語られる正木清一郎氏とは
いったい、どのような人なのかという疑問が、つぎに浮かびます。
そこで、手にした古本は2冊。
「 千葉のなかの朝鮮 」(明石書店・2001年)
石垣幸子著「 朝鮮の千葉村物語 」(崙書房ふるさと文庫・2010年)
ここには、2冊目から引用させてもらいます。
「明治37年(1904)7月、千葉県水産組合連合会は臨時総会を開き、
九十九里の不漁対策として、韓国への漁業移民について討議した。
そして、韓海漁業視察員の派遣を決め、
安房水産組合副会長正木清一郎他4名が朝鮮へ赴いた。」(p25)
明治37年(1904)といえば、その2月に日露戦争が始まております。
明治38年(1905)9月に、日露講和条約が調印されて
その年の12月、韓国統監府開設、初代統監伊藤博文。
千葉県から漁業移民として『千葉村』が出来ることになります。
明治39年(1906)11月、韓国統監伊藤博文千葉村を視察。
明治41年(1908)5月には、太海(ふとみ)村長であった鈴木松五郎が、
『千葉村』の監督として韓国へと渡っておりました。
明治42年(1909)9月に、鈴木松五郎監督が暗殺されております。
そして、明治42年10月ハルピンで伊藤博文暗殺。
千葉県の漁業の歴史的経緯には、このようなことがありました。
もどって、正木清一郎(1855~1934)は、代々船形村の名主でした。
大正12年の関東大震災の時には、68歳となっております。
『 純漁村のこの町では町民を活かす事が先決問題だ 』
という言葉とともに、
『 時に君とんだ事になったね 』
『 ああ咄嗟の場合よい考も出ないが 』
こうした語り口を思い浮かべるにつけ、
未曾有の大震災大火災に直面した際の、沈着な
代々の名主としての自覚がうかがえる箇所だと、
そうあらためて思ったりするのでした。