昭和46年発行の「館山市史」。その関東大震災の記述の中に
こんな箇所がありました。
「・・・・9月6日戒厳令が施行せられ、
安房郡内にも軍隊が派遣せられた。陸軍歩兵学校教導隊より
一ヶ中隊、佐倉歩兵五七連隊、県警察部よりの派遣巡査等
続々来援し、館山海岸ホテルを本部として治安維持に当ったので、
間もなく自警団は解散した。
一方、救護については、当時の記録を見ると(北条警察署報 安房震災誌)
北条病院と長須賀納涼博覧会場を救護所に当て、県派遣の医師14名の応援と、
千葉医大医師3名、看護婦4名、他に薬剤師1名を加えて医師45名にて
救護に全力を尽くしたとあり、
当時の安房郡長大橋高四郎氏を中心として、郡役所職員、各町村主脳部が
打って一丸となって、県当局への連絡、各機関への通報請願等をなした
努力は、今でも感謝の語り草となっている。・・ 」(p565)
はい。この引用の最後にある『 今でも感謝の語り草となっている 』
というこの箇所があるのでした。
大橋高四郎氏の行動の断片をとりあげると、当節のあら探しのような
表面的をなぞるだけならば、まずもって『怒鳴る』場面が浮かびます。
「・・俺(大橋)はいつも損害をかこつ人に・・
・・と怒鳴るのが常であった。 」
( p822 「大正大震災の回顧と其の復興」上巻 )
「 ・・昼のうちは勿論、夜半になっても郡役所の仮事務所の
中央の薄暗いところに、棒立になって顔の見さかへも付かぬまでに、
汗とほこりにまみれて、白服の黒ろずんだのを着て、
丁度叱るような、罵るやうな大声を挙げて、
一瞬の休息もなく人を指揮してゐる小柄な男がある。
『 あれは誰れだらう。 』と一般の通行人には可なり
問題となってゐたのであったが、聞いて見ると、
あれは大橋郡長であったのだ。
といふ噂が、其處にも此處にも広がったさうである。・・ 」
( p317~318 「安房震災誌」 )
ここだけでも、短く断片を切り取れば、
『 俺は・・・と怒鳴ることが常だった。 』となり、
『 叱るような、罵るような大声を挙げて 』いるのを
一般の通行人が問題にしていた。ということになるのでした。
ここから、『今でも感謝の語り草・・』となるまでを
どのように言葉にしてゆけばよいのかと思っていると、
山本五十六が語っていた、という言葉が浮かんできました。
やってみせ 言って聞かせて させてみて
ほめてやらねば 人は動かじ。
話し合い 耳を傾け 承認し
任せてやらねば 人は育たず。
やっている 姿を感謝で見守って
信頼せねば 人は実らず。
この山本五十六の『やってみせ』からはじまる短い言葉は
最後の方に『感謝』という言葉がでてくるのでした。
安房郡長大橋高四郎への
『 今でも感謝の語り草となっている 』へと
次回はつなげたいと思います。