和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

今でも感謝の語り草となって②

2024-06-05 | 安房
昭和46年発行の「館山市史」。その関東大震災の記述の中に
こんな箇所がありました。

「 ・・・当時の安房郡長大橋高四郎氏を中心として、
  郡役所職員、各町村主脳部が打って一丸となって、
  県当局への連絡、各機関への通報請願等をなした努力は、
  今でも感謝の語り草となっている。・・・・       」(p565)

「安房震災誌」の中から、「感謝」に関係しそうな箇所を引用。まずは
「郡役所職員、各町村主脳部が打って一丸となって」と関連しそうな箇所。

「 ・・素より不規律でやっていくのであるが、
   その不規律の中に一道の規律があった。

  それは郡長が統率者となり一身を以て
  総般の指揮に任じたことであった。殊に吏員は、

『 此際吏員は一身を捧げて罹災者の為めに大に努力すべし 』

  といふ郡長訓示の下に身を捧げて働いたのである。
  紙の上で画一的に定めた分担などよりも・・・・
  罹災者を満足せしめた一層の出来栄えがあった。  」(p280)

「安房震災誌」の第八章「震後の感想」に安房郡長の
 言葉としてでてくる箇所に『感謝』の言葉がありました。

「 それで、一人一人で考へて見てもよく分かることだが、
  此の前古未曽有の大震災の中で、大部分の人が 
  或は死に、或は傷いてゐる中に、

『 自分は一命を全うしてゐるといふこと自体が、
  既に『 感謝 』すべき大なる事実ではないか。 』

  自分はどうして一命が助かったか。
  と、ふりかへって熟々と自己を省みると
 『 感謝 』の涙は思はず襟を潤ほすのである。
  実に不思議千萬な事柄である。
  不思議な生存である。
  ありがたい仕合せである。

     生命の無事なりしは何よりの幸福なり。
     一身を犠牲にして萬斛の同情を以て罹災者を救護せよ


  と、震災直後、郡役所の仮事務所に掲示して
  救護に当る唯一のモットーとしたのも
  此の不思議な生存観から出発した激励の一つであった。・・・」
                   ( p313~314 )

その直前の箇所にはこうあるのでした。最後にそこを引用しておきます。

「 ・・・氏(郡長)はいふ、此の大震災に就て、
  自分が身を以て体験したところを一言にして掩ふならば、
  『 感謝 』といふ言葉が一番当ってゐるやうに思ふ。
 
  ・・・実感を本当にいひ現はすには、
  自分の知り得るだけの言葉では、総てに向って
 『 感謝 』するといふ外はない。・・・・

  ・・・それは大震災当時の事実に当てはめて見ると
  文字通りの『 感謝 』では、物足らぬような感じがするのである。

  それは第一今回の大震災に就て、
  皇室の有難き御思召を思ふとき、
  正にそう感ぜずには居られない。

  次には郡の内外の切なる同情である。

  それと又郡民と郡吏員の真面目な、
  そして何処までも忠実な活動振りである。

  どちらから考へても『 感謝 』であって、
  そして、『 感謝 』の内包をもう少しく深めたくなるのである。 」
                   ( p312∼313 )
 


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