和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

「白菜」2。

2007-12-22 | Weblog
高橋新吉による詩「白菜」の解説には、
「美しい視覚的な詩です。一幅の絵が目に浮びます。」とありました。

高橋新吉には、あまり知られておりませんが、
「美術論集すずめ」という10冊の本があります。その本の内容はというと、
その年の美術展を観ながら、絵とその題名を並べてあり、それに触発された詩や、感想が絵の写真とともに紹介されているのでした。親しい方に聞いた話ですが(かりにKとします)、「美術論集すずめ」の一冊をKは古本屋で買ったそうです。出版は竹葉屋書店とあります。電話番号もある。さっそく他の数冊もあるか確かめたくて電話してみたそうです。すると、そこは高橋新吉の自宅だったというのです。そんな興味がてら、住所をたどって本を買いに竹葉屋書店へと出かけていったそうです。詩人はテレビを見て待っており、部屋には地方紙が無造作に置かれていたそうです。Kは詩人にあって詩の話もせずに、残りの巻を購入することの話をしていたそうでした。押入れのような納戸のようなところから出してきて売ってくれたそうです。ただし1冊欠があったと言っておりました。

ちょいと寄り道してしまいましたが、
「白菜」という詩は、言葉としての意味合いをあれこれ探ってしまうと、つまらなくなるような気が私にはします。それよりも絵との関連から見てゆくと、すっきりと単純な視点を得る気がするのでした。それについて思い浮かぶことを書いてみます。

「定本 尼崎安四詩集」の附録で、富士正晴氏が尼崎氏について書いておりました。そのなかにこんな箇所があります。「・・竹内勝太郎に師事し得たということがある。しかし、この師事の期間が竹内勝太郎の不運な急死によって、ごく短く打ち切られたことは彼の悲運であった。重ねてしかしというが、その後、竹内の心友の宗教的雰囲気の濃い花鳥画家榊原紫峰の宅に出入りして、彼に親しみ、彼の精神を吸収し得たということは尼崎にとって幸運とでもいうべきものであったと思われる。」

これは富士正晴が附録に書き記しているのですが、
のちに、富士正晴は「榊原紫峰」(朝日新聞・昭和60年)を書き上げております。
その本によると、竹内勝太郎の絵への視点が鮮やかに浮かび上がる記述があるのでした。榊原紫峰の絵を竹内がどう記述していたのかが、わかるのです。

「私の立場からすれば、氏(注:榊原)の新しい芸術的生活の本道は寧ろ『果実』から始まって『五月雨の頃』『露』『竹の秋』『獅子』『野菜』を経て『蛤』にまで続いていゐると見たいのである。『蛤』は尺三横物の小品で、唯大小五六個の蛤を描いたに過ぎぬが、ものの見方のはっきりとしたこと、実在の掴み方の確かなこと、生命の美しさを表現するその構図の組み方の立派なことなどは他の幾多の大きな作品よりも遙かに優れてゐる。私は此の小品を限りなく愛するものである。それはほんとうに紫峰氏が静物の本体を自覚してきたことを示すものであると信じてゐる。・・・・」(p120~121)

私には、この箇所を、そのまま絵の題名を入れかえて詩「白菜」の評価としたい誘惑をもちます。また、興味深いのは竹内勝太郎に「村上華岳の仏画」という文章があることです。そのなかにこんな言葉があります。

「若し仏画が唯従来の所謂仏様を描き表すことに尽きるものならば、それはもう法隆寺の壁画や日野法界寺のそれの如き飛鳥、天平乃至藤原初期の作品で充分である。それは到底あれ以上には出られないし、及びもしない、ヨシそれ等に追従し得たにした所で、結局は模倣の譏(そし)りを免れまい。現代人は現代人の仏画を要求する。それは仏様の相を描かなくても、一木一石を描いて充分仏を表現し得、風景画を描いても静物を描いても、彼の信ずる宗教を切実に表現し得る底のものでなくてはならぬ。なぜなら我々は飛鳥、天平の時代に住むものでなく・・・現代人の宗教画に要求する所も亦自から違って来なければならぬではないか。」(p131)

この言葉には、高橋新吉が詩「白菜」を評して「このように宗教的な祈りに似た感情や哲学的な知性が、この作品からは汲みとれます。」という言葉と実に近い語りとして感じられてくるものです。

竹内勝太郎や高橋新吉が絵について語った感触に、詩も近づいたのだと、尼崎安四の拾遺詩集を読んでいると私は思うのです。


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 年賀はがき。 | トップ | 蒲原平野。 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事