和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

今でも感謝の語り草となって

2024-06-04 | 安房
昭和46年発行の「館山市史」。その関東大震災の記述の中に
こんな箇所がありました。

「・・・・9月6日戒厳令が施行せられ、
 安房郡内にも軍隊が派遣せられた。陸軍歩兵学校教導隊より
 一ヶ中隊、佐倉歩兵五七連隊、県警察部よりの派遣巡査等
 続々来援し、館山海岸ホテルを本部として治安維持に当ったので、
 間もなく自警団は解散した。

 一方、救護については、当時の記録を見ると(北条警察署報 安房震災誌)
 北条病院と長須賀納涼博覧会場を救護所に当て、県派遣の医師14名の応援と、
 千葉医大医師3名、看護婦4名、他に薬剤師1名を加えて医師45名にて
 救護に全力を尽くしたとあり、

 当時の安房郡長大橋高四郎氏を中心として、郡役所職員、各町村主脳部が
 打って一丸となって、県当局への連絡、各機関への通報請願等をなした
 努力は、今でも感謝の語り草となっている。・・ 」(p565)

はい。この引用の最後にある『 今でも感謝の語り草となっている 』
というこの箇所があるのでした。

大橋高四郎氏の行動の断片をとりあげると、当節のあら探しのような
表面的をなぞるだけならば、まずもって『怒鳴る』場面が浮かびます。

「・・俺(大橋)はいつも損害をかこつ人に・・
  ・・と怒鳴るのが常であった。   」
     ( p822  「大正大震災の回顧と其の復興」上巻 )

「 ・・昼のうちは勿論、夜半になっても郡役所の仮事務所の
 中央の薄暗いところに、棒立になって顔の見さかへも付かぬまでに、
 汗とほこりにまみれて、白服の黒ろずんだのを着て、
 
 丁度叱るような、罵るやうな大声を挙げて、
 一瞬の休息もなく人を指揮してゐる小柄な男がある。

 『 あれは誰れだらう。 』と一般の通行人には可なり
 問題となってゐたのであったが、聞いて見ると、
 あれは大橋郡長であったのだ。

 といふ噂が、其處にも此處にも広がったさうである。・・ 」

                 ( p317~318 「安房震災誌」 )

ここだけでも、短く断片を切り取れば、
『 俺は・・・と怒鳴ることが常だった。 』となり、
『 叱るような、罵るような大声を挙げて 』いるのを
 一般の通行人が問題にしていた。ということになるのでした。

ここから、『今でも感謝の語り草・・』となるまでを
どのように言葉にしてゆけばよいのかと思っていると、

山本五十六が語っていた、という言葉が浮かんできました。

   やってみせ 言って聞かせて させてみて
         ほめてやらねば 人は動かじ。

   話し合い 耳を傾け 承認し
         任せてやらねば 人は育たず。

   やっている 姿を感謝で見守って  
           信頼せねば 人は実らず。


この山本五十六の『やってみせ』からはじまる短い言葉は
最後の方に『感謝』という言葉がでてくるのでした。
安房郡長大橋高四郎への
『 今でも感謝の語り草となっている 』へと

次回はつなげたいと思います。

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