和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

人の言葉の散りやすさ②

2024-05-26 | 地震
「大正大震災の回顧と其の復興」上巻に
明尋常高等小学校報が載っておりました。
そこから今回は引用してみます。

明村(あきらむら)青年団とあります。
ちなみに、千葉県東葛飾郡にあった村で
現在の松戸市役所のあたりのようです。
この文のなかに「 為に救護団は自警団とかはり 」とある箇所を
途中から引用してゆきます。

「 明村青年団は挙って避難民を救助せんと準備した・・・
  炊事場、救護所等を急設して麦湯、ふかしいも、握飯等を用意した、

  刻々と避難民は押かけ何百人かを接待した、
  されど益々避難者は増加するので一層徹底的に救護せんものと
  2日午前5時支団一同協議した結果、救護所には本支団倶楽部(栄松寺)
  を当てて其の準備をした、

  午後になると不逞漢云々との流言蜚語盛に起り一層人心に不安を加へた、
  為に救護団は自警団とかはり、『不逞漢と見たらやってしまへ』の
  声起り伝来の日本刀まで持ち出して意気をあげてゐた、
  水も洩らさぬ警戒振りであった。 」(p900~901)

ここから、本支団顧問中村戒仙と自警団との話になります。

「 ・・(禅師)は自警団詰所に来り一同の様子に驚き何事ぞと問はれた。

  不逞漢に対する事情を話すと
『 それは以ての外である。無警察状態の折であるから何かの誤であらう、
  殊に彼らも尊き人類である以上、保護するのが当然だ 』

 と警告された、団員一同は軍人迄も之に当るの時に於て
 保護することは出来ないといって端なくも殺気立ち論争となった。・・

『 其れまでの覚悟ならば萬一不逞の徒が現はれたなら捕縛して
  おれの寺に連れて来い、此の事が静まるまでおれが保護の任に当る 』

 といって頑として動かなかった。
『 ・・・・其れが亦御佛の慈悲である、よし
  1~2の不心得者があったにしても、全部がさうとはいはれない 』

  と懇々と説かれたが、
  其の時は一同も殺気だって居たこととて、或者は
『 時に容れらざる説だ。我々の行為を邪魔する説だ。
  たとへ本支団の顧問だと云へ余り解らなければ真先にやってしまへ 』
  等といふ者もあったが、
『 成程 』と心の奥に感じさせられた者も少なくなかった。

 斯くして一日すぎ二日すぎ漸く平穏にかへった。

 一月も経ってから一同は全く彼の時はあはてたものだ、
 流言であった、蜚語であった、今になって顧みると

『 あの場合よくも和尚様はああいふ態度がとれたものだ 』

 と感心してゐる。お蔭で一同も悔を後に遺すこともなく、
 平素の修養の必要であることを切に覚った・・・・

 師の本支団顧問当時、大震火災満一周年には青年団として
 卒先死者供養塔を建立して盛大に供養された、
 そして和尚さんは当時の追憶談をしてくだされた。  」(~p902)
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