和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

京都人の性質。

2021-01-21 | 京都
入江敦彦著「読む京都」に、こんな箇所。

「差し引きすれば仏様に貸しがある――
これほどまでに京都人の性質を表現した諺はない。

宗教都市と呼ばれる古社古刹が犇めく街の住人の本音がこれである。
お供えを欠かさず、事あるごとにお布施をはずんでも、
カミサマ・ホトケサマから返ってくる御利益や御功徳は僅かなものだ
・・・という現実主義。ゆえに期待してはならぬという自戒。
そんな気持ちを言葉にして見せる諧謔とシニシズム。

それでいておそらくはどこの都市よりも神仏への畏怖を忘れぬ崇敬心。
京都人の貸しは嵩むばかり。だが、それでいいと彼らは考えている。
借金から逃げ回る人生よりも余程マシ。」(p158)


昨日は、妻のお父さんの三回忌。
仏壇の前に、住職を入れて4人。
曹洞宗でした。皆で読んだのは、
「魔訶般若波羅蜜多心経」
「修証義 第一章総序」
「妙法蓮華経観世音菩薩普門品偈」
だったと思います。
最後は住職が、御詠歌のような節回しで
たしか『南無地蔵菩薩』という言葉がはいっておりました。

わたしは、修証義を住職の読経にしたがって、
久しぶりに声を出して読んでおりました。
その修証義第一章のさいごの方をすこし引用。

「今の世に因果を知らず業報を明らめず、三世を知らず、
善悪をわきまえざる邪見のともがらには群すべからず、
おおよそ因果の道理歴然として私なし、
造悪の者は堕ち、修善の者はのぼる、ごうりもたがわざるなり
 ・・・・・・  」

はい。第一章の最後はというと

「仏祖の道を修習するには・・・
業報の理をならいあきらむるなり
しかあらざれば 多くあやまりて邪見に堕つるなり、
ただ邪見に堕つるのみに非ず悪道に堕ちて長時の苦を受く。

まさに知るべし今生の我身二つ無し三つ無し、
いたずらに邪見に堕ちて虚く悪業を感得せん惜しからざらめや、

悪を造りながら悪にあらずと思い、
悪の報あるべからずと邪思惟するによりて
悪の報を感得せざるにはあらず。」
(注:引用はところどころ漢字をひらがなにしました)


ちなみに、
「読む京都」の先に引用した箇所は
「«貸しがある»人々の宗教本」と題する章の
はじめにありました。その題の文のなかに
気になる箇所がありました。

「しかし京都で本当に重要なのはやはり
偉人の生い立ちや足跡を辿ることではない。

名もなき人々、市井に生きて死んだ町衆たちの行動原理
から湧いてくるもののほうに、より濃厚な醍醐味がある。

救済のシステム論ともいえる眞鍋廣濟の『地蔵菩薩の研究』や
婆娑羅=異類異形の研究をまとめた網野善彦の『異形の王権』
といった隠れた名著は数多い。
京を京足らしめたのは秘仏や名僧ではなく、
日常を見守る路傍仏であり蔑まされてきた異端者なのだ。」(p162)

はい。つぎにひらいてみたい本が決まりました。




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2 コメント

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Unknown (きこちゃん)
2021-01-21 10:16:02
いつも読んで下さって有り難うございます

修証義の言葉がとても胸に沁みました

空海の風景はなんど読み始めても途中で諦めてしまっています 何しろ読めない漢字があるし難解ですね
返信する
未読です。 (和田浦海岸)
2021-01-21 10:34:10
こんにちは。
きこちゃん。

はい。拝見してます(笑)。

道元の修証義は、一年ぶりに、
わたしは読んだのでした。
ちなみに、わたしは、
「空海の風景」未読で、
読み始めてもいないのでした(笑)。
返信する

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