和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

京都の都市と年中行事

2023-12-21 | 京都
中央公論社の「日本絵巻大成」8は、「年中行事絵巻」。
その「年中行事絵巻」の巻末解説が、吉田光邦氏でした。

そこから引用したいのですが、そのまえに、
吉川英治著「宮本武蔵」の最初の方でした
(はい。私は最初の方しか読んでいません)。
うる覚えなのですが、武蔵が枝だか竹だかの切り口を手にとり、
この切り口は、ただ者ではないと指摘する場面があるのでした。

はい。切り口ということで、この吉田光邦氏の解説を読むまで、
私は、お祭りと年中行事との切り口を思ってもみませんでした。
ということで、引用をはじめます。

京都の年中行事を語る吉田光邦氏は、都市の指摘をしております。

「それはまた、中国の都城にならって人工的に設計され、
 建設された京都の市民においても同様であった。

 宮廷と政府という機関を中心として成立したこの都市は、
 純然たる消費都市であり、あるいは『延喜式』の語るように、
 官営手工業の都市であった。

 そこでは、農業を中核として成立した社会集団とは違って、
 四季は生業の基本たりえない。農業にあっては、いつも
 四季の動向が生産を左右する。そこで生産のプロセスの中に
 季節は存在し、生産を完全にするために、
 多種多様の呪術的儀礼、祭儀も生まれてくる。
 祭式はいつも生産を完成するために存在する。

 けれども、手工業の場合は、ほとんど四季に左右されることはない。
 生産は季節の条件を組み込まずとも、そのプロセスは成立する。

 この四季の変化を基礎としない生活様式が、
 じつは京都の市民たちのありかただったのである。

 ・・・・・しかも、都市という集団生活は、
 農村とは違った異質の災害をも生み出す。
 たちまちに多くの人家を灰にしてしまう火災、
 また多くの人命を奪っていく疫病の流行、
 地震・雷火などの損害は、すぐに増幅され拡大される。

 そこで、これらの災害のもととなる超越者、すなわち
 御霊(みたま)を鎮めて災害から逃れようとする行動が生まれてくる。
 いわゆる御霊会(ごりょうえ)の発生である。

 これらは・・・・きわめて人工的なものであり、人工的なドラマであった。
 年中行事が、宮廷人や官僚ばかりか、庶民の間にも強く意識されていたのは、
 こうした都市生活の性格からである。しかも、
 いきなり人工都市として生まれた京都において、それはことに強かった。

 この意識と性格は今も京都の伝統として残り続けている。
 京都では、季節の変化があって年中行事があるのではなく、
 年中行事が正確に行われてこそ、四季はめぐっていくのある。」(p131)


はい。なんだか見事な切り口を見せて頂けたようで、
ちょっと忘れられないだろうなあ。

ちなみに、切り口といえば思い出すのは、徒然草でした。

    徒然草 第229段

 良き細工は、少し鈍き刀を使ふ、と言ふ。
   妙観(めうくわん)が刀は、いたく立たず。

訳】 すぐれた細工師は、少し鈍い刀を使って細工すると言われている。
   妙観の刀は、それほど切れ味がよくはない。

ちなみに、島内裕子訳・校訂「徒然草」(ちくま学芸文庫)の
『評』は、こうでした。

「 小林秀雄のエッセイ『徒然草』で引用され、有名になった段である。
  切れ過ぎると、つい道具に頼って、じっくり自分の力で
  着実に行うことを怠ってしまう。兼好は、それを戒めたのだろう。」
                            (p436)


はい。吉田光邦氏は日本の職人を語っている中に、徒然草のこの段を
引用されていたので、すぐに思い浮かびました。

はい。こういう切り口につい味をしめて、
では、東京の年中行事は、などとスッパスッパと
つい、切ってみたくなることの戒めとして『すぐれた細工師』の職人の例。


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