鶴見俊輔の赤塚不二夫追悼文(朝日新聞8月5日)に
「中国大陸の東北部、旧満州に育ったこどもが、せまくるしい日本に引き揚げてきて、理由のわからないせまくるしさに悲鳴をあげて、自分を息苦しくしている塀にわが身をぶつけている。そのあがきに、彼のマンガは根ざしている。根があるから、どんどん育ってやむことがない。」
この箇所が、印象に残ります。
ところで、文藝春秋9月号に「日本の師弟89人」という特集。
北見けんいち(マンガ家)が赤塚不二夫を書いております。
そこに、「ダメおやじ」の古谷三敏。『総務部総務課山口六平太』の高井研一郎というアシスタントの顔ぶれが紹介されておりました。
「赤塚先生がマンガを描くとき、まず古谷さん、担当編集者などと、アイデア出しを行う。赤塚マンガの魅力である辛辣なギャグは古谷さんの力がとても大きかった。キャラクター作りは高井さん。赤塚先生が口でキャラクターのイメージをしゃべったのを、高井さんがその場で絵にしていく。イヤミやハタ坊などはこうして作り出された。赤塚先生は映画でいえば、プロデューサー兼映画監督。出てきたアイデアやキャラクターを自在に動かし、鮮やかにマンガの形にまとめていくのである。ぼくの仕事はというと、最初は原稿用紙の切り出し。当時はマンガ用の原稿用紙など売っておらず、大きな紙を包丁で原稿の大きさに切りそろえていくのである。そして鉛筆で枠を描いて、千枚通しで同じところに穴を開け、束ねていく。一生続くかと思うくらい膨大な量の原稿用紙と毎日格闘していた。それから、消しゴムをかけたりベタを塗ったりして、原稿を完成させる『仕上げ』。あまり大した貢献はしていないなあ。不思議なことに赤塚先生をはじめ、古谷、高井、ぼくと、みな大陸からの引き揚げを経験している。赤塚、古谷、ぼくが満洲で、どこか都会的な高井さんだけが上海というのもちょっと面白い。・・・『釣りバカ日誌』の連載が始まったのは、ぼくが39歳のときだ。赤塚先生から『もうマンガはやめろ』と言われたことが二回ある。・・・・」
明日は「文藝春秋」10月号の発売日。
年間定期購読してるので先にクロネコメール便で届きました。10月号。まず読んだのがタモリの「追悼 これでいいのだ、赤塚不二夫」10ページの文。最後には、タモリの弔辞も載せてあります。
たとえば、こんな箇所はどうでしょう。
「赤塚さんは極度に気が弱い。特に売れない頃は、気が弱いあまり道の真ん中を歩けなかったというくらいですから。しかも、気が弱いうえに気が優しいという複雑な人なので、ほかの人と接触して徐々に仲良くなることが、恥ずかしくて苦手なんです。本当は、初対面で兄弟のように仲良くなりたい。でも、その思いが高じて大胆な方向に作用してしまう。初対面なのにその人の欠点をズバリついたりする。それで、『なんだよ、このバカ野郎』などと言われながら仲良くなりたいらしいんですが、それは上手くいかない。禿げている人に向って『なんだこの禿野郎』と言ってしまうので、ムッとして帰っていった人を何人も見ています。」
なんだか、人ごとながら、他人事には感じられない気がしてくるじゃありませんか。そういえば、タモリ氏の弔辞の印象深い最後はこうでした。
「私はあなたに生前お世話になりながら、一言もお礼を言ったことがありません。それは肉親以上の関係であるあなたとの間に、お礼を言う時に漂う他人行儀な雰囲気がたまらなかったのです。・・・ありがとうございました。私も、あなたの数多くの作品の一つです。合掌。 平成二十年八月七日 森田一義」
日経新聞8月7日文化欄には鈴木伸一氏が「さらば赤塚不二夫さん」を載せておりました。そこに
「シャイな赤塚さんはお酒によって多くの人と付き合えるようになり、だんだんお酒を手放せなくなっていったのではないだろうか。」という箇所があったのでした。
「中国大陸の東北部、旧満州に育ったこどもが、せまくるしい日本に引き揚げてきて、理由のわからないせまくるしさに悲鳴をあげて、自分を息苦しくしている塀にわが身をぶつけている。そのあがきに、彼のマンガは根ざしている。根があるから、どんどん育ってやむことがない。」
この箇所が、印象に残ります。
ところで、文藝春秋9月号に「日本の師弟89人」という特集。
北見けんいち(マンガ家)が赤塚不二夫を書いております。
そこに、「ダメおやじ」の古谷三敏。『総務部総務課山口六平太』の高井研一郎というアシスタントの顔ぶれが紹介されておりました。
「赤塚先生がマンガを描くとき、まず古谷さん、担当編集者などと、アイデア出しを行う。赤塚マンガの魅力である辛辣なギャグは古谷さんの力がとても大きかった。キャラクター作りは高井さん。赤塚先生が口でキャラクターのイメージをしゃべったのを、高井さんがその場で絵にしていく。イヤミやハタ坊などはこうして作り出された。赤塚先生は映画でいえば、プロデューサー兼映画監督。出てきたアイデアやキャラクターを自在に動かし、鮮やかにマンガの形にまとめていくのである。ぼくの仕事はというと、最初は原稿用紙の切り出し。当時はマンガ用の原稿用紙など売っておらず、大きな紙を包丁で原稿の大きさに切りそろえていくのである。そして鉛筆で枠を描いて、千枚通しで同じところに穴を開け、束ねていく。一生続くかと思うくらい膨大な量の原稿用紙と毎日格闘していた。それから、消しゴムをかけたりベタを塗ったりして、原稿を完成させる『仕上げ』。あまり大した貢献はしていないなあ。不思議なことに赤塚先生をはじめ、古谷、高井、ぼくと、みな大陸からの引き揚げを経験している。赤塚、古谷、ぼくが満洲で、どこか都会的な高井さんだけが上海というのもちょっと面白い。・・・『釣りバカ日誌』の連載が始まったのは、ぼくが39歳のときだ。赤塚先生から『もうマンガはやめろ』と言われたことが二回ある。・・・・」
明日は「文藝春秋」10月号の発売日。
年間定期購読してるので先にクロネコメール便で届きました。10月号。まず読んだのがタモリの「追悼 これでいいのだ、赤塚不二夫」10ページの文。最後には、タモリの弔辞も載せてあります。
たとえば、こんな箇所はどうでしょう。
「赤塚さんは極度に気が弱い。特に売れない頃は、気が弱いあまり道の真ん中を歩けなかったというくらいですから。しかも、気が弱いうえに気が優しいという複雑な人なので、ほかの人と接触して徐々に仲良くなることが、恥ずかしくて苦手なんです。本当は、初対面で兄弟のように仲良くなりたい。でも、その思いが高じて大胆な方向に作用してしまう。初対面なのにその人の欠点をズバリついたりする。それで、『なんだよ、このバカ野郎』などと言われながら仲良くなりたいらしいんですが、それは上手くいかない。禿げている人に向って『なんだこの禿野郎』と言ってしまうので、ムッとして帰っていった人を何人も見ています。」
なんだか、人ごとながら、他人事には感じられない気がしてくるじゃありませんか。そういえば、タモリ氏の弔辞の印象深い最後はこうでした。
「私はあなたに生前お世話になりながら、一言もお礼を言ったことがありません。それは肉親以上の関係であるあなたとの間に、お礼を言う時に漂う他人行儀な雰囲気がたまらなかったのです。・・・ありがとうございました。私も、あなたの数多くの作品の一つです。合掌。 平成二十年八月七日 森田一義」
日経新聞8月7日文化欄には鈴木伸一氏が「さらば赤塚不二夫さん」を載せておりました。そこに
「シャイな赤塚さんはお酒によって多くの人と付き合えるようになり、だんだんお酒を手放せなくなっていったのではないだろうか。」という箇所があったのでした。
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